あおもり110山
(かたさきやま  300.5m  東通村)
 
■ かつての放牧地は今…

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片崎山山頂から見た猿ケ森砂丘。圧倒的な迫力で眼前に迫ってくる。手前は大沼=1997年6月6日
 「片崎山には子供のころ、学校遠足でよく行ったものだ。山は一面の芝生。津軽海峡、太平洋、陸奥湾がよく見えた。山頂でドッジボールもやった。ヤマツツジが咲くころは、山全体が真っ赤っかに染まったものだ」。一九五五(昭和三十)年ごろの思い出を東通村野牛牧野組合長の高田辰也さん(五六)が教えてくれた。

 野牛地区の人たちは昔から畜産に取り組んでいる。片崎山の共有地に牛馬を放牧するため牧野組合を設立したのは一八八九(明治二十二)年。一八九七年ごろ、片崎山に牛の日本短角種を約百頭放牧していたと伝えられている。

 放牧の形態は長い間、自然状態の中に牛を放す林間放牧だった。牛は草やかん木の芽を食べるため草木の丈は高くならず、山項付近は芝生状態がずっと維持されてきた。

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台地状の片崎山。上の部分が牧草地になっている=1997年9月5日、桑畑山山頂から
 が、林間放牧だけでは生産性に限度があるため、意欲に燃える牧野組合は一九六五(昭和四十)年ごろ、草地造成に取り組む。牧野組合全盛のころだった。当時は三十戸が約百頭の牛を飼育していた。そして七一−七三年度に草地を改良し、草地三十ヘクタール、林間放牧地三百七十八ヘクタールの牧野ができあがった。

 雪解けとともに組合員は山に登り、牧柵(さく)の修理や牧草地への肥料まきに精を出した。こうして準備を整えてから毎年八十八夜のころに放牧し十一月初め、自然交配でおなかに子を持った牛を下げた。そして、産まれた子牛を売って収入を得てきた。

 変化が起きた。牧野整備の結果、車で山頂付近まで行けるようになったため、花の色の鮮やかさで知られるヤマツツジが盗掘されだしたのだ。ほろ付きの車で乗り付け、夜陰に紛れてごっそり盗んでいく。危機感を持った牧野組合は、営林署や警察署と一緒にパトロールし、現行犯を捕まえたこともある。

 それでも盗掘は後を断たなかった。「色の良い株の多くは盗まれてしまった」と高田さん。また、山頂付近で放牧が行われなくなったため、芝生はやぶに代わった。いまヤマツツジは、やぶの中に点在しており、かつての群落とは随分様相が違っている。

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山頂付近のヤマツツジ。かつては大群落だったという=1997年6月6日
 一時期、牧野組合の年間売り上げは一千万円を超えたが、牛肉輸入自由化に伴う子牛価格の暴落や高齢化などから牧野の維持管理が厳しくなり、さらに短角種から黒毛和種へと切り替わったため、片崎山の牧野を利用する人が次第に減っていった。

 こうして牧野組合は九四年を最後に片崎山での放牧をやめ、近くの村営牧場に預託放牧している。現在の組合規模は七戸、二十五頭。全盛期と比べかなり規模が小さくなり、畜産の厳しい現状を物語っている。

 “主”がいなくなった三十ヘクタールの草地はそのままになっており、牧草はこれまでと変わらず生えてきている。「水が良く日陰もあり、牛の交配はほとんど成功した。他の牧場と比べ物にならないくらい良い牧場だった。もったいない感じがする」と高田さんは残念そうな表情を浮かべる。

 眺望抜群。とくに山頂から見る猿ケ森砂丘のスケールの大きさは圧巻だ。ヤマツツジも見事、そして使われなくなった牧場がそっくり残っている片崎山。村畜産課は観光牧場として再生させる手段を検討中だ。実現すれば、人気の行楽地になるに違いない。

<メモ> 山頂から望める猿ケ森砂丘

 片崎山山頂からよく見える猿ケ森砂丘は、東通村小田野沢から尻労にかけての長さ十七キロ、幅一−二キロ。このうち防衛庁は一九五九 (昭和三十四)年三月末までに長さ約一三・五キロ、幅一キロを買い上げ、同年から年間を通して全国の自衛隊各師団が火気弾薬類の弾道試験場として使っている。中には入れない。

 試験場の外側にあるヒパ埋没林は有名。七百四十−九百二十年前に埋没したと推定されているが、原因は分かつていない。

(1997/10/25 東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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