あおもり110山
(がんけやま  304.4m  脇野沢村=現むつ市)
 
■ 野生動物観察の中心

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ガンケ山山頂付近で野生動物を観察する磯山さん。はるか遠くに見えるのは釜臥山(右)と大尽山=1998年5月11日
 「ガンケは、山菜も何も採れない。村人にとっては何の用も無い山だ」。下北半島でのニホンザル・ニホンカモシカの民間生態調査の“さきがけ”高橋金三さん(75)=脇野沢村瀬野川目=は、こう言ってガンケ山を説明した。が、村人が足を運ばない山でも動物調査員にとって、非常に重要な位置を占めてきた。

 高橋さんはそれまで勤めてきた青森市の病院を辞し1965(昭和40)年、ふるさとの脇野沢村に戻りユースホステルを開業した。と同時に自らリーダーとなりサル・カモシカの調査を始めた。

 学生や若者を募り、ガンケ山の山頂にテントを張って粘り強く調査した。「当時、山頂付近はサルの抗争の場だった。だから、絶えず調査に行ったものだ。これで論文を書いた学生が数人いた。サル・カモシカの観察の中心地はガンケだったんだ。大将格のサルにはガンケと名付けた」と高橋さんは振り返る。

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ガンケ山山頂付近から見た脇野沢村本村と陸奥湾=1998年5月11日
 調査時期になれば約50人の学生がユースホステルに泊まる。この繁忙期に、高橋さんの娘さんと結婚した磯山隆幸さん(50)が手伝いに呼び寄せられた。磯山さんは観光で下北に訪れ、ユースホステルに泊まった縁で結婚。三重県津市の写真館に勤めていた。

 磯山さんは最初、調査の学生を輸送する運転手として手伝っていた。「学生たちが『ガンケ、ガンケ』と言っているのを耳にし、崇高な山というイメージを持っていた。地図を読み取る知力、長時間歩ける体力がガンケ登山には必要だった。だから、新人調査員はあこがれ、そこに登るのが彼らの誇りになっていたようだ」と磯山さん。

 それならば、と83年夏、自ら独りで登項を試みた。が、道に迷い「死にそうになった」。84年12月、今度は雪をラッセルしながら挑んだが、体力が尽きてやはり山頂は踏めなかった。

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1998年5月11日、村道九艘泊-源藤城線から
 磯山さんは84年、高橋さんに誘われてサル・カモシカの調査員に加えてもらい、87年7月からは脇野沢村に移り住んだ。そしてこの年からサル・カモシカの写真を撮るようになった。同年、サルの写真を撮るため群れを追った。ガンケ山はサルの行動域のひとつだった。気が付いたら念願だった山頂に立っていた。「サルに連れられて登ったようなものです」と磯山さんは笑う。

 ユースホステルを高橋さんから継承した磯山さんは、サル・カモシカ調査も引き継いだ。かつて高橋さんがそうしたように、学生たちを戦力に調査を続けている。ただガンケ山は、サルが90年ごろから姿を消したため、かつてのように観察の中心地ではなくなった。一帯を行動域にしていた群れが南下し、畑などに出没するようになったからだ。

 また、山の近くに村道九艘泊−源藤城線が建設中のため、難しかった登山が、山頂まで5分ほどで行けるようになった。磯山さんは「寂しい。でも、これが時代の流れなのかなあ」と表情を曇らせる。

 山頂に登ってみた。葉の上に大きなダニが止まっていた。「カモシカマダニだ。血を吸うと2センチに膨らみます」と磯山さん。2匹のダニが記者の長靴を登り始めた。かなりの高密度だ。カモシカも高密度で生息している証左か。

 サル・カモシカが駆け回る山並みを眺めてから下山した。途中、ふと目を上げたら陸奥湾越しに岩木山が見えた。きれいな二等辺三角形だつた。

<メモ>難所だった「蛸田越え道」

 ガンケ山から南に延びている尾根に「蛸田越え」と呼ばれている山道がある。1948(昭和23)年に九艘泊に通じる海岸道路ができるまでは、海が荒れたとき、九艘泊の人々はこの道を利用して本村まで来た。尾根の東側斜面は非常に急で難所だった。同村の高橋金三さんは「元気な人でも両手両足を使って登らなければならないほどの急斜面だった。このため“二足半のわらじ坂”(半は額のこと)と呼ばれた」と言う。

(1998/06/27 東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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