あおもり110山
(あさひなだけ  874m  川内町・大畑町=ともに現むつ市)
 
■ 狩猟伝承文化息づく

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どっしりと立つ朝比奈岳。畑のマタギはこの山を見て自分の位置を確認する=1997年4月19日、湯の川林道から
 朝比奈岳をめざして、川内町(現むつ市)と大畑町(同)の境界になっている雪の尾根を登っていた。と、ブナの大木に刻まれた木印(マタギがナタなどで木に彫った字や印)が目に入った。「藤三郎 昭三一年」。川内町畑の伝承的マタギ名人岩崎五郎さん(66)の叔父岩崎藤三郎さんが42年前に彫ったものだ。

 畑は、今もマタギの狩猟伝承文化が生活の中に息づいている極めて特異な集落だ。千葉徳爾著「狩猟伝承研究補遺編」(風間書房刊)によると「狩猟専業者のみの集落というものは、少なくも、日本では近世中期以後には存在しなかったであろう、と推論する。ただ一つ1888(明治20)年ころまでは畑だけが、あるいはそれではなかったかと考えられる」とある。

 つまり畑は、わが国の最後の狩猟専業集落ということになる。その畑の中でも藤三郎さんは「マタギの神様」の一人として知られている。

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朝比奈岳山頂から見た宇曽利山湖=1997年4月19日
 藤三郎さんの木印のことを五郎さんは鮮明に記憶していた。「雨の春の日、叔父はヒバの木の上にクマを追い上げた。濃霧でクマがどこにいるのか分からなかったが、タマが無くなるまで銃を撃った。血がどんどん落ちてきた。叔父は私の家に戻って来て応援を求めた。クマは枝に抱きついたまま死んでいた。その上に子グマが一頭いた。子グマは私が撃った。ヒバは直径七十センチと太かった。のこぎりで30分かかって木を切り倒しクマを回収した。木印はそのときのものだ」

 五郎さんは営林署の山仕事や土木作業員をやりながら狩猟の腕を磨き、父藤次郎さんから一子相伝の秘法を受け、伝承的マタギ名人となった。秘法とは、マタギの作法や、動物を殺したときの“となえごと”で、これらは口述で伝えられる。

 となえごとの対象は今ではクマだけで、畑でクマがとれると、それが有害駆除であっても「となえごとをしてくれ」と五郎さんのところにお願いに来る。死送りの儀式をきちんとしないと、畑の人たちの気持ちはすっきりしないのである。狩猟伝承文化が今も息づいている証左だ。

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朝比奈岳の最後の登り。ブナの斜面が延々続く=1997年4月19日
 朝比奈岳は、畑のマタギの行動範囲の中では最も高い山だ。五郎さんは「私たちは高い山を目印に歩く。朝比奈岳は、この辺を歩くと、どこからでも見える山だから、この山を見て自分の現在地を確かめている」と話す。

 畑の人たちは、クマのほかウサギもとる。以前は畑の周辺や川内町野平でウサギ猟をしていたが、十五年ほど前から朝比奈岳でもやっている。「朝比奈岳のウサギは体が大きい。野平同様、冬になっても赤い毛のウサギがいるんだ」と五郎さん。以前は巻き狩り(集団の猟)をしていたが「最近はもっぱら忍びうち(単独猟)だ。猟の季節に出稼ぎに行く人が多くなったから巻き狩りができなくなったんだ」。

 朝比奈岳を北西尾根から登ると、ヒバとブナの緩斜面が続く。マタギの木印があちこちのブナの幹に残っており、往時をしのばせる。最後の300メートルは雪の急斜面だ。息を切らせ汗まみれになって登った山頂からは、360度の眺望が得られた。津軽海峡、尻屋崎、宇曽利山湖、釜臥山、陸奥湾、津軽半島の山々…。そして、畑のマタギたちが獲物を求めて縦横自在に歩いた山々が眼下に広がっていた。

<メモ> 「儀式」がハンターとの違い

 畑地区は300年以上前、青森県田子町の2人の南部藩お抱えマタギが開いたという。畑のマタギは工藤家(上巻)と岩崎家(下巻)の二派あり、伝承者の系譜に属するのは工藤家では大沢専悦さん(五〇)、岩崎家では岩崎五郎さんで、マタギの作法や死送りのとなえごとを忠実に受け継いでいる。二つの流派の違いは三点あり、クマを仕留めてから行う儀式やとなえごとに差異がある。これらの儀式の有無が伝承マタギとハンターとの違いだ。

(1998/7/11 東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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