あおもり110山
(うまのかみ  689.1m  十和田湖町=現十和田市)
 
■ 牛の産地に様変わり

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馬ノ神の西南に広がる惣辺牧野から見た北八甲田(右)と南八甲田(左)。西には御鼻部山、南には戸来岳がよく見える=97年11月20日
 かつての馬産地にある馬ノ神。あまりにも象徴的な山の名である。

 1539(天文8)年に赤沼(現十和由市)奥瀬(現十和田市、旧十和田湖町)沢田(同)に馬役人がいた、と記録されているなど馬ノ神から十和田市や十和田湖町に広がる一帯は、古くから馬の産地だった。「以前は立惣辺山にも馬を放牧していたから、馬ノ神はまさに馬の放牧地の中心だった」と県畜産課の石井昌之課長は話す。

 いま、馬ノ神の西南の山ろくには惣辺牧野(管理は十和田市)が広がっている。十和田市赤沼の畜産農家が中心に牛を預託放牧している。が、十和田湖町(現十和田市)地内の牧場をなぜ十和田市の人が利用しているのか、という疑問が浮かぶ。これについて石井課長は、次のように推測する。

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正面のなだらかな山が馬ノ神だ=97年11月20日、十和田市大沼平から
 「一帯はかつて自由な放牧地として使われていたが、条件の良い場所に馬が集まっていった。こうして赤沼の人たちは1885(明治18)年ごろから惣辺を放牧地として利用するようになった。大正時代、国は馬産限定地として放牧適地を指定。従来の既得権益を尊重して惣辺は赤沼地区、馬ノ神の東側は沢田地区、北八甲田東側の田代平は十和田市中掫地区、その南の大中台は十和田市深持地区、またその南の湯ノ台は十和田湖町法量地区が利用−というように行政区域に関係なく“縄張り”が決められた」

 赤沼に住む十和田市文化財審議委員会副会長の東正士さん(71)は、戦前から1960(昭和35)年ごろまで、馬2頭を惣辺牧野に放牧した。1頭は農耕馬、もう1頭は子馬生産用だった。このほか牛も放牧した。

 「赤沼から惣辺まで約25キロもあった。春、牛馬を引いて惣辺に連れて行き、秋になれば家に連れ帰った。往復はすべて徒歩。1日がかりの仕事だった。牧野は、今のような草地は無く、林間に放牧した」

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道のない緩斜面の雑木林を歩くとほどなく山頂に着く=97年11月20日、馬ノ神山頂近く
 戦時中、軍は馬のせりの前に良い馬をチェックし、軍用馬として買った。東さんは「当時、普通の馬は1頭50−100円でせり落とされたが、軍用馬は300−500円、軍用優等馬であれば1000円もした。学校の校長先生の月給が45−60円の時代だから、馬が軍に引き取られると人を集め3日間、飲ませ食わせのお祝いをした」と振り返る。馬ノ神の裾野で育った馬も戦争に駆り出されたのである。もっとも東さんは「わが家からは軍用馬は出ませんでした」と笑う。

 赤沼の人たち71人は51年、惣辺牧野畜産農協を設立、惣辺の地約1000ヘクタールを国から借りて(のちに240ヘクタールの払い下げを受ける)本格的に畜産を始めた。最初は林間放牧だったが、61年から88年まで、同農協、県、市、農用地整備公団が事業主体になり大規模な牧草地をつくっていった。現在の惣辺牧野は総面積281ヘクタール(うち牧草地220ヘクタール)で、春から晩秋まで540頭の牛が放牧されている。

 標高約630メートルの高原にある惣辺牧野。馬ノ神の山頂からは眺望はきかないが、牧野の牧草地から見る八甲田、戸来岳などの眺めは抜群だ。石井課長、十和田市農林課の東昭悦課長は「惣辺は夏季冷涼で、牛の育成に非常に適しているのが特徴だ」と口をそろえる。馬ノ神は今、“牛ノ神”となっている。

<メモ> かつては薪炭材供給林

 馬ノ神林道の終点近くで車を下り、緩斜面の雑木林を歩くと、ほどなく山頂に着く。山頂から眺望は得られない。馬ノ神は畜産とともにかつて、薪炭材供給林として重要な役目を担っていた。方平林道治いに分教場跡がある。炭焼きの人の子供が通ったもので、東正士さんは、38(昭和13)年に廃校となった十和田市上切田小茗畑分教場跡と思われる、という。当時の子供たちが記念に植えたモミの木が、今は大木になっている。

(1998/1/10  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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