あおもり110山
(つきひやま  549.4m  十和田市)
 
■ 恵みに感謝 信仰今も

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日月神社の社殿(左後方)の落慶を祝って例大祭の日、十和田市大不動の鶏舞が奉納された=97年8月5日
 十和田市西南部の柏木地区からさらに西南に向かって車を走らせると、やがてなだらかな山が見えてくる。これが月日山だ。植林した杉や、かなり伸びたミズナラなどで覆われ、こんもりしている。

 藤島川土地改良区理事長を務める同市大不動柏木、太田悦朗さん(50)は「月日山は昔、炭焼きと馬の産地だったんです」と教えてくれた。月日山は、人々に大きな恵みを与えてくれる“宝の山”だったのだ。

 炭焼きの人たちは夏と冬に山に入った。山の中に炭焼き小屋をつくり、長期戦で炭を焼いた。定期的に場所を変えて木を伐採するため、山はいつも同じ状態に保たれていた。このような炭焼きは30年ほど前まで続いたという。

 以前は太平洋のイカ釣りの明かりや名久井岳が見えるなど眺望は抜群だったというが、今は山項や神社前に立っても木に遮られて眺望はきかない。炭焼きをやらなくなり、定期的に木を伐採しなくなったためだ。

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なだらかな月日山=97年8月5日、十和田市柏木地区の山手から
 太田家はかつて40−50頭の馬を飼っていた。戦前、戦中は軍用馬を拠出し、戦後は農耕馬として育てた。「子供のころの夏、馬を放牧するため月日山に登った記憶がある。山は自然の放牧地だった」と太田さん。このように月日山に馬を放す家は多かった。今でいう林間放牧をしていたわけだ。が、炭焼き同様、今は放牧していない。

 月日山は、人々の生活と密接にかかわっていたとともに、信仰の山でもあった。古くから「死者の霊は、いったん月日山に集まり、それから恐山に行く」と伝えられるなど霊山として知られていた。これに加えて、人々は月日山から多くの恵みを受けてきたため、山に対して深い崇敬の念を抱いてきた。

 信仰のよりどころになっているのが、山頂付近にある日月神社だ。山名が「月日」、神社名が「日月」なのが不思議だが、そのなぞはだれも分からない。

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日月神社近くにある磨崖碑。日月山と刻まれている=97年8月5日
 神社への参道は、五戸方面から十和田湖に通じる十和田山参道と重複していた。太田家は、十和田山参道を歩く参拝客の“宿”でもあった。人々は当時、こうして民家に泊まりながら参拝をしていたようだ。「みんな日月神社に参拝してから十和田湖に向かった」と太田さんは話す。

 炭焼きをする人たち、馬を放牧する人たちは、入山の前に必ず日月神社にお参りし、旧暦の7月3日の例大祭には、境内は参拝客でごったがえしたものだ、という。

 しかし、人々の足は次第に神社から遠のいていく。太田さんは「車社会になってから、歩くのがおっくうになったためだろう」と言う。太田家は江戸時代末期から同神社を管理してきた。このため太田さんは毎年の例大祭の参拝は欠かしたことはないが、奥さんと2人だけの参拝のときもあった、という。

 それが、ここ5−6年、参拝者が急に増えてきた。参道が整備され、神社まで車で行けるようになったためだ。

 1997(平成9)年の例大祭(8月5日)はいつにないにぎわいを見せた。51(昭和26)年に建てた社殿が老朽化したため、太田さんが音頭をとって新築。その落慶式典が行われたためだ。式典の最後に同市大不動の鶏舞が演じられた。雨中の熱演に涙を流す人もいた。涙は信仰の厚さを物語っていた。

<メモ> 社殿新築でクリの標柱設置

 日月神社付近には大岩、タカのツメ跡がある岩、古墳、賽の河原、寺屋敷跡など見ものがさまざまある。1997年の神社社殿新築の際、これらのそばにクリの木で作った標柱を設置した。とくに大岩は磨崖碑と言われ「日月山」と刻まれた字がはっきり見える。かなり昔に掘ったとみられ、月日山は以前、日月山と言われていたことをうかがわせる。山頂は神社から林道を歩いて3−4分の所にある。三等三角点が埋められている。

(1997/10/4  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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