あおもり110山
(とわだやま  1053.8m  十和田湖町=現十和田市)
 
■ 山腹を雪中行軍隊通る

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十和田山山頂直下から見る十和田湖は圧巻だ。この眺望を楽しみに登る人が多い=97年5月30日
 山頂付近にイチイ(オンコ)の群落があることから、地元の人たちにオンコ岳と言われている十和田山。その山頂付近から見る十和田湖は迫力がある。十和田山、十和利山、三ツ岳は“十和田三山”と呼ばれいずれの山頂からも十和田湖が眺望できるが、十和田山から見る湖が一番大きく見える。

 のどかな眺めとは裏腹に、十和田山には過酷な登山の歴史が刻まれている。八甲田雪中行軍である。弘前歩兵第三十一連隊は1902(明治35)年1月24日、十和田湖畔の宇樽部を出発、十和田山の山腹を通って難所の犬吠峠を越え、新郷村に向かった。この日日本列島は強烈な寒波に襲われ、北海道で氷点下41度を記録したほど。折しもこの日は、23日に青森市を出発した青森歩兵第五連隊が“死の彷徨(ほうこう)”を始めた日であった。

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山頂部に雪を抱いた十和田山=99年2月24日、宇樽部の十和田湖湖畔から
 福島泰蔵大尉(1866−1905、群馬県出身)に率いられた弘前隊38人は20日に弘前市を出発。平賀町−十和田湖西岸を経由して23日、宇樽部に着いた。宇樽部では6戸の民家に分宿、福島隊長ら幹部は山本留さん(1878−1958年)宅に泊まった。「当時の宇樽部は貧しく、将兵に布団を出してやれなかった。将兵はむしろを着て一晩中、火にあたって暖をとった」。留さんから当時の模様を聞かされた娘マツヨさん(90)の談だ。

 犬吠峠越えの案内をしたのは留さんの妻ハルさん(1876−1952)だった。ハルさんは新郷村上栃棚出身で、峠越えのルートをよく知っていた。映画「八甲田山」では、秋吉久美子がハルさんの役を演じ、軽い身のこなしが印象的だった。

 実際、ハルさんは健脚だった。孫の山本寿保子さん(55)が母マツヨさんから聞いたところによると「あの日は猛吹雪で男でも歩くのが大変だった。しかし祖母はぐんぐん先頭を歩き、福島隊はついて行くのがやっとだった。将兵たちは『ずいぶん気丈な女だなあ。歩くのも速いし』と舌を巻いていた」。

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子ノロ側の登山道にムラサキヤシオの並木がある。下はシラネアオイ=97年5月30日
 ハルさんはこの思い出を娘や孫に語らなかった。夫留さんにしか話さず、それを留さんが娘マツヨさんに語り継いだのだった。「祖母は、小柄でやせていたが、声が大きく気性の激しい人だった。怖かった。動きも敏しょうだった。母から雪中行軍を案内したんだ、と聞かされたとき、あの祖母なら案内できただろう、と思った」。孫寿保子さんのハルさん像である。

 当時の犬吠峠の気温は氷点下16度だった。福島大尉は峠に着いたときの状況を手記に残している。「寒さのため停止や休憩ができない。鬢(びん)につららが下がり、皮膚は粟(あわ)立ち、体は震える。みんな口をつぐみ、目はくらむ」。こうして福嶋隊は難所を突破、この後八甲田越えを成功させたのだった。

 寿保子さんの夫で十和田市の石材店に勤めている喜代吉さん(60)は、ハルさんの功績が忘れられないように、と98年、宇樽部にあるハルさんの墓碑の裏に「第三十一連隊を宇樽部から上栃棚まで案内した気丈な女といわれる」と彫った。

 「雪中行軍にずっと関心を持って来なかったが、今は祖母のやったことを誇りに思う。すごい祖母だった、と思っている」。寿保子さんはそう言ってすこし胸を張った。

<メモ> 明治18年当時は有料通路

 五戸町の三浦泉八(元農林大臣三浦一雄の祖父)は、有志1人と一緒に自費を投じて新郷村戸来−宇樽部間の道を切り開き1885(明治18)年に完成させた。同道は同年7月から8カ月間、有料道路となり1人2銭5厘、牛馬1頭7銭、売り荷20銭(1頭当たり)が徴収された。弘前歩兵第三十一連隊は、同道を通って新郷村に向かった。地元の人によると同道は今「歩けることは歩けるがやぶがきつい」状態だという。

(1999/4/17  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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