あおもり110山
(たかやま 277.2m 五戸町・南部町)
 
■ 歴史の道をウオーク

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アカマツ林の中を通る「歴史の道・奥州街道」を歩いて高山山頂をめざすウオークの参加者たち=97年6月29日
 1997(平成9)年6月29日、雨上がりの五戸町。町立公民館に続々人が集まってきた。子供からお年寄りまで約60人。これから歴史の道奥州街道を歩く人たちだ。みんな、うきうきしている。

 今なお昔の姿を残す奥州街道を、五戸町立公民館−高山−南部町中央公民館、の区間17.5キロを歩こうというものだ。高山は、そのコースの一番高い地点で、標高277.2メートルながら“五戸町最高峰”だ。

 奥州街道は「東鑑」の1256(建長8)年の項に「奥大道」と記されており、早くからできた道であることを伺わせる。江戸幕府は奥州街道、日光街道、甲州街道、中山道、東海道を「五街道」と位置づけて管理、わが国の幹線道路として整備した。

 「もっとも、奥州街道と呼ばれたのは江戸−白河の間。白河以北は奥州道中といわれ、管理は各藩に任された」と話すのは五戸町文化財審議委員長の三浦栄一郎さん(69)。県内では三戸町−五戸町−七戸町−野辺地町−青森市を通り、幹線道路であり生活道路でもあった。

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“五戸町最高峰”の高山山頂。展望台からの眺めはすばらしい=97年6月29日
 この歴史の道を歩いてもらおう、と考えたのは、当時公民館に勤務し現在町役場総務課の三上保彦さん(37)。「町民でも奥州街道を知らない人が多かった。当町には街道の昔の面影を残している部分が非常に多い。奥州街道を知り、ふるさとをみつめ直してほしかった」と動機を語る。

 ふるさと創生資金の中から3000万円を整備に投入し標識、展望台、あずまやなどを設置。こうして1989年から「奥州街道ウオーク」が始まった。

 今年は9回目。一行は午前8時半に公民館を出発、要所要所で三浦さんらからの説明を聞きながら歩いた。「一里塚」「鳥内坂」「鞍越坂」「十海塚」「廿三夜塔」「水無坂」…。標識は非常に良く整備されている。

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奥州街道の沿線には案内板や標識が整備されている=97年6月29日、五戸町浅水地区
 住宅地を通り、畑のそばを歩き、杉林や松林の中を抜けて高山に近付いていく。昔の人たちがここを歩いていたのか、と思うと不思議な気持ちになる。車が1台通るのがやっとの道。タイムマシーンに乗って、江戸時代に逆戻りした気分だ。当時の通行人になった気持ちで歩を進める。

 参加者たちは、道の両側に実っているモミジイチゴをつまんで、のどの渇きをいやす。道がサクランボの枝のトンネルになっている所も。たわわに実ったサクランボに「わあ、きれい」と驚きの声がもれた。

 正午すぎに高山山頂に着いた。1876(明治9)年7月11日、明治天皇が東北ご巡行の際に休まれた場所だ。ここで四方の景色を眺めながら野だてを楽しまれた、という。

 ご一行は213人、馬61頭で、岩倉具視、大久保利通、大隈重信、木戸孝允ら明治の元勲らも随行し、高山の山頂に立ったという。

 今は周囲の樹木が高くなり、山頂に立っただけでは景色は見えない。が、展望台に登ると、明治天皇が121年前に目にされた五戸台地、戸来岳、岩手山、名久井岳、そして八戸の街並みが目に飛び込んできた。

 ふるさとを離れて40年。川崎市の自営業藤村義毅さん(59)もウオークに参加した。「このような歴史のある道が五戸にあることを知らなかった。在京の五戸出身者にぜひ教えたい」。万感を胸に山頂からの景色に見入っていた。

<メモ> 地域挙げて記念碑建立

 文化庁は1996(平成8)年11月1日に「歴史の道百選」を選定、奥州街道の五戸町−同町浅水−高山−南部町長坂−三戸町蓑ケ坂の区間も選ばれた。
 高山山頂に立つ明治天皇の記念碑は、25(大正14)年7月11日に五戸村役場が建立した。碑文は、当時明治神宮宮司だった一戸兵衛陸軍大将(弘前市出身)の筆による。記念碑の建設費は500円。建設に各戸から1人ずつ303人、小石や砂利の運搬に180人が勤労奉仕した。

(1997/9/6  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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