あおもり110山
(ならわずだけ 374.9m 南郷村=現八戸市)
 
■ 南郷に「八戸市民の森」

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不習岳山頂で開かれた「南郷そばとバーベキューの集い」で焼き肉を楽しむ八戸市民ら=99年5月30日
 南郷村にある「八戸市民の森」。小高い丘のような不習岳が、それだ。なぜ八戸市が、行政区域外に市民の森を設定したのだろう、と不思議に思う県民が少なくない。

 1999(平成11)年5月30日、不習岳山頂で「南郷そばとバーベキューの集い」が開かれた。八戸市民、南郷村民をはじめ近隣町村から集まった人たちで山頂はごった返し、そばと南郷牛の焼き肉を存分に楽しんでいた。

 おなかがいっぱいになった人は山頂の展望台へ。標高は低い山だが、眺望はなかなかだ。八戸市、太平洋、鳩岳、階上岳、久慈平岳、折爪岳、名久井岳、十和利山、戸来岳、南北八甲田、八幡岳がよく見える。

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不習岳山頂のツツジは、訪れる人たちの目を楽しませてくれる=99年5月30日
 八戸市民の森を設けよう、と話が出たのは昭和40年代だった。三戸郡の町村長らから「階上岳や名久井岳には、八戸の子供たちばかり来るね」と冷やかされた当時の市長秋山皐二郎さんは「これは、八戸市にも遠足に適した山を設ける必要があるぞ」と早速調査を命じた。

 最初に候補地に上がったのは同市館地区の山だった。しかし、山頂部が馬の背のような形をしており、大勢の子供が休める場所がとれないことが分かったため断念した。同市には、ほかに遠足適地の山が無かった。そもそも山らしい山が無かった。

 さて、どうしたものか、と悩んでいた折、当時南郷村長だった壬生末吉さんが秋山さんに「当村に、いい山がありますよ」と伝えた。それが不習岳だった。担当の市職員で不習岳を知っている人はいなかった。「読み方も知らなかった。“返り点”で読むことが分かったときは、みんな驚いたもの」と当時農林課に勤務し市民の森開設に奔走した市財政部次長の松橋公彦さん(57)は振り返る。

 市長や松橋さんは、人に知られないように何回も現地に足を運んで調査、その結果、不習岳に市民の森を設けることが決まった。そして山を買収することにした。

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小高い丘のような不習岳=99年5月30日、南郷村不習地区から
 が、買おうとした97ヘクタールには地権者が約40人いた。地権者の意見は分かれた。若い人たちは「このままでは村はさびれるので、市に協力し開発してもらおう」と主張したが、年配の人たちは「財産を手放すのは惜しい」と渋った。

 用地交渉で苦労をしたのは当時村企画係長の村松平三さん(64)だった。「交渉は難航した。68回も地権者の家を回って説得に努めた。最後の最後まで頑張り、交渉をまとめるのに2年かかった」と話す。

 整備には、林業関係の県費補助金を導入した。このため自然を大きく変えるのではなく、森をつくり育て、その中で楽しんでもらうことを主眼に整備した。そして八戸市民の森は78(昭和53)年、オープンした。

 今では八戸市の小中学校がバス遠足で不習岳に行くのが定番となり、行楽に訪れる市民も多い。今回のバーベキューの集いに参加した八戸市の学校職員前田あい子さんも「学校の遠足や家族で5−6回来ています。静かで自然が豊かな感じがいい」と話す。

 同村では現在、世増ダムが建設中だ。村松さんは「ダムサイトと不習岳を結び付けて整備すると、双方の観光資源としての価値が高まるのではないか。そうあってほしい」と夢を語っている。

<メモ> 改名された“習わない学校”

 南郷村不習地区には1909(明治42)年に開校した島守小学校不習分教場(のちの不習分校)があった。が、「“習わない学校”というのは変だ」との校長の主張が通り57(昭和32)年、緑小に改名した。不習岳調査の際、同校を訪れた秋山八戸市長が、子供たちの明るく元気なあいさつに「明治の教育ここにあり」と非常に感動し不習岳に好印象を持った、という。緑小は88年、島守小に統合された。

(1999/7/17  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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