あおもり110山
(みつだけ 1159.4m 新郷村・十和田湖町=現十和田市)
 
■ 昔、漁師が天気予想に利用

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約200年前に八戸の人たちが三ツ岳に感謝し奉納したご神塔=97年10月20日、十和田市大平頭の十和田参道で
 「これは、四和村(現十和田市)に古くから伝えられている話だ、と同村出身の郷土史家力石定吉さんから教えられたことです」と言って十和田市文化財審議委員会副会長の東正士さん(71)が話し始めた。

 「昔、八戸の船6隻が漁に出たとき突然、三ツ岳に黒雲がかかった。4隻は“きまり”どおり港に引き返したが、大漁を狙い“きまり”を守らず漁を続けた残りの2隻は遭難した。危うく命拾いした4隻の船の漁師たちは、三ツ岳の山の神様に守られたおかげ、と感謝し、ご神塔を三ツ岳に向けて建てた」

 十和田市大平頭(十和田市大平牧野と十和田湖町惣辺牧野の境付近)にご神塔は現存している、という。東さんにお願いし、見に行った。

 昔の人たちが十和田湖休屋の十和田神社にお参りに行くときに通った参道を、やぶをかき分けながら歩いて行ったら、参道沿いに2基のご神塔がひっそり建っていた。

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三ツ岳山頂から見た十和田湖。右奥に見えるのは岩木山、右手前の大きな山は十和田山=95年10月1日
 2基ともコケむし、高さ約70センチと小さい。まさに三ツ岳と正対していた。今はやぶで山はよく見えないが、当時はよく見えたものと思われる。

 上部には「御神塔」「享和三 五月十五日」と刻まれていた。享和3年は1803年、5月15日とは十和田神社の例大祭日である。

 1基の台座には「八戸連中」「石工 安藤仁太郎」「〓(山の記号の下にキ)忠吉」「願世主 古屋又右衛門 港屋善兵衛 泉屋二郎源兵衛」など、もう1基の台座には「石安吉長 石山利兵エ」「願世主 佐藤屋徳兵エ 傘屋次郎 古屋金蔵 糀屋與助」などと刻まれていた。約200年前に刻まれた字はかなり見えにくくなっており、東さんの助けを借りて読んだ。

 これらの名は「八戸の網元や豪商だろう」と東さんは推測する。

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八戸港沖2キロの海上から見た戸来岳(左大駒ケ岳、右三ツ岳)。手前は三菱製紙の煙突=97年12月24日
 八戸の漁師は本当に三ツ岳を見て天気を予想したのだろうか。八戸市の久栄漁業社長で八工大理事長の柳谷弟吉さん(72)を訪ねた。「泊岳(六ケ所村月山)がはっきり見えればシケる。八甲田が曇ると雨が降る。戸来岳(三ツ岳と大駒ケ岳の総称)と八甲田の間がかすむと風と雨がくる、と言い伝えられている」。これは、旧四和村の三ツ岳伝説とかなり一致する。

 「櫓(ろ)で操る和船の場合、海が荒れてしまうと逃げられず大変なことになった。だから、山を見て早めに天気を予想した。戦前まで、この方法を用いた」。またレーダーの無い時代、八戸以北の沿岸で漁をするとき、月山、八甲田、戸来岳の三つの山を見て自分の位置を確認したものだ、という。

 「旧四和村三ツ岳伝説の船は八丁櫓(八本の櫓がある和舶)、沿岸から約2キロ沖でカレイ類の漁をしていたと思う」と柳谷さんは推理する。では、2キロ沖から山はどのように見えるのだろう。かつて、カレイの刺し網の漁場を決めるときに山の方角を利用したという吉田義経さん(66)の小舟に乗せてもらい97年12月24日、八戸港から沖に出た。

 確かに山はよく見えた。右から左(北から南)へ八幡岳、北八甲田、南八甲田、戸来岳、名久井岳、折爪岳、階上岳がぽこんぽこんと見える。目立つ建造物は三菱製紙、東北電力八戸火力、八戸セメントの煙突だけ。これらの建造物が無い時代には、山はまさしく海からの目印になる、と実感できた眺めだった。

<メモ> 戸来岳という単独峰なし

 八甲田という単独峰が無いと同じように、戸来岳という単独峰は無い。戸来岳は三ツ岳と大駒ケ岳の総称だ。三ツ岳は、十和田湖方面から見ると、正三角形のように見えるが、十和田市や十和田湖町惣辺牧野から見ると、ピークが三つに見える。これが山名の由来とみられる。三ツ岳山頂からは十和田湖が見え、その向こうに岩木山を望める。鋭角的な三ツ岳と違い大駒ケ岳の山頂部は台地状でイチイが多く生えている。

(1998/1/31  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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