あおもり110山
(おはなべやま  1011m  十和田市=旧十和田湖町)
 
■ 救農土木で八甲田に道

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十和田湖湖面からそびえ立つ御鼻部山(中央)。後方で残雪を抱くのは南八甲田の山々=1997年5月28日、秋田県の発荷峠から
 猿倉温泉から南八甲田を貫き御鼻部山に至る27キロの山道。「あれは軍用道路だったんだ」。本県の山岳関係者の間では、このような言葉がささやかれ続けている。それがいつの間にか真実として独り歩きしている感がある。

 県山岳連盟顧問の中野轍自郎さん(67)も「南八甲田にあんな道を造るのは日本陸軍しか無い、と思い、軍用道路説に疑いを持ってこなかった」と述懐する。

 軍が八甲田に道を造るのだろうか。その疑問を元十和田湖町町長の久保佐仲太さん(83)にぶつけてみた。「当時、凶作が続いたので県議の小笠原八十美さんが救農土木として県に造らせた道だ。軍用道路なんかじゃ絶対にない」。八十美氏の子息で元猿倉温泉社長の小笠原大一さんも生前、記者に「あれは父が救農土木としてやらせたものだ。軍用道路と信じ込んでいる人が多くその都度、私は否定している。惣辺バイパス建設のとき、新たに道を開削するより、この道を利用すればいい、という意見もあったが、自然保護のため却下された」と教えてくれた。

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御鼻部山に続くかつての車道は現在登山道になっている。=1998年7月4日、一ノ沢−地獄峠間で
 道は1934(昭和9)年から3年がかりで造られた。当時の県経済は確かに厳しかった。29年の世界恐慌を引きずっていたうえ、31年から35年まで続く大凶作(33年だけ豊作)に農村は疲れきっていた。本県稲作史の中でもこのようにひどい凶作が続いた時代は見当たらない。

 県農試60年史のデータから計算すると、上北郡の作況指数は31年が30%、34年が21%、また35年は19%だった。当時の東奥日報を見ると、困り果てた農家の娘の身売り話が何回も出てくる。悲惨な時代だった。八十美氏は、このような背景から救農土木を推進した。しかし、今に残る斜面の石組みは随分立派なものだし、沢に架かる橋もしっかりしている(99年に崩壊)。単なる救農土木事業の域を越えている、と県内のある林業土木専門家は指摘する。

 これについて久保さんは「小笠原さんは、将来の南八甲田観光開発を視野に入れ、遠大な構想のもとに造らせた。猿倉温泉を拠点とした観光開発を考えて立派な道を造らせたんだと思う。先見の明があった」と推測する。

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御鼻部山山頂から見える十和田湖=1997年5月28日
 が、八十美氏の構想に時代が付いて行けなかった。十和田村史には「この道には車が1台も通らなかった」という記述がある。「当時、役場には公用車が無かった。そんな時代に車があの道を走るわけがない。車が通らなかったからといって何も不思議なことではない」と久保さん。この“南八甲田観光道路”は時代的に早過ぎたのだった。車が通らないまま戦争に突入、平和な時代になったら、道は荒れ果てた状態になっていた。久保さんは「もったいない。復活させれば良い観光道路になる」と思ったが、改修に回すお金が無く結局そのままになった。

 いま、この道は南八甲田登山のメーンルートとして多くの登山者に利用されている。猿倉温泉−黄瀬萢の間はしっかりした登山道として残っているが、黄瀬萢から御鼻部山に向かうルートは、一部やぶに覆われ、山慣れた人でないと容易に歩けない状態だ。

 道に車が通らなかったため南八甲田の豊かな自然が残ったのは皮肉な結果である。この道が完成した36年、八十美氏は衆院選に初当選した。

<メモ> 県境問題いまだ決着せず

 十和田湖の県境線引きが本県と秋田県との間で決着をみていないため、御鼻部山周辺にはまだ県境が引かれていない。十和田湖町は「御鼻部山は当町のもの」と主張しているが、山頂に秋田県小坂町が掛かるのかどうかは分からない。十和田湖の眺望地点は、御鼻部山、発荷峠、瞰湖台、滝ノ沢の4カ所。御鼻部山展望台は1964(昭和39)年に造られたが、傷みが激しくなったため県は97年、5千万円をかけて改築した。

(1998/12/5  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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