あおもり110山
(のりくらだけ  1449.8m  十和田市=旧十和田湖町)
 
■ 山頂の岩は牛馬の神

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静かな黄瀬沼。発見者の太田吉之助の名にちなんでかつて、太田沼と呼ばれていた。右の山は乗鞍岳=1998年7月5日
 南八甲田の静かな山・乗鞍岳は、“山の神”と人々から尊敬され十和田湖開発に大きな功績があった太田吉之助(1878〜1962・十和田湖町=現・十和田市)と大きくかかわっている。いや、吉之助抜きには乗鞍岳を語れない、といってもいい。

 吉之助は本業が農業だったが、進取の気質にあふれた人だった。鉱山、養魚(十和田湖にヒメマス放流)、植林(造林技術の改良普及)、牧畜、山岳開発(大町桂月を十和田湖や八甲田に案内)−の5事業を、自分の生涯に課せられた使命、と信じ、そのすべてにおいて時代の先端を突っ走った。とくに力を入れたのは探鉱で、八甲田をくまなく歩き回った動機になった。

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乗鞍岳山頂にある大岩。太田吉之助は、この岩を牛馬の守護神としてまつった=1998年9月9日
 鉱山を開くことについて吉之助は 「これは山師の仕事ではなく、埋もれた地の宝を世に出すことで村、県、国を富まそう、とするものだ」と語っていた、という。1906(明治39)年4月15日、探鉱の過程で発見したのが、乗鞍岳南西ろくの山上湖・黄瀬沼だった。09年には仲間と再び沼にでかけ「太田沼」と命名した。

 この沼は長く、太田沼と呼ばれたが、役場が「個人の名が使われるのは、まずい」と難色を示した。吉之助は「自分が見つけた沼だから太田沼でいいんじゃないか」と主張したが、結局退けられ黄瀬沼と改名された。吉之助のおいの太田鉱一郎さん(91)は「役場と吉之助の、このやりとりを私はそばにいて聞いた。よく覚えている」と振り返る。

 乗鞍岳山頂から南側を眺めると、眼下に広大な森が広がり、その規模に圧倒される。この山ろくは黄金平、黄瀬平と言われ、吉之助はここに牧野を開いた。今でいう林間放牧だ。01年のことで、1200ヘクタールという規模は、国有林野内の牧場としては当時、県内屈指のものだった。

 吉之助は牧場を開いたとき、乗鞍岳山頂の大岩をまつり牛馬の守護神とした。吉之助は山頂に鉱一郎さんを2回ほど連れていった。忙しい吉之助は、鉱一郎さんに「あとは任せた。毎年、この神様の石を拝んでくれ」と託した。

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南八甲田前谷地から見た乗鞍岳全景=1998年11月2日
 毎年お参りに行くには、道がちゃんとしていなければならない。そこで鉱一郎さんは、十和田湖町沢田地区の人たちを何人か連れていき、乗鞍岳登山道を開いた。これが現在の「一の沢ルート」だ。

 鉱一郎さんは、吉之助の頼みを忠実に守り、奥さんのチヨさん(89)とともに毎年10月、乗鞍岳に登り続けた。大岩をしめ縄でぐるり巻いて、岩の上に御幣をあげる。そしてコメとお神酒を供える。鉱一郎さんがかつて牛馬を飼っていたころは、自分やほかの人たちの牛馬の安全を祈ったが、自分が飼わなくなってからも「牛馬を飼っているすべての人のために」と安全を祈ってきた、という。

 しかし、高齢のため、5年ほど前から参拝登山をやめている。吉之助が乗鞍岳山頂の大岩を牛馬の守護神としてまつってからの“伝統行事”が途絶えたのだ。引き継ぐとすれば鉱一郎さんの息子の大英さん(65)。参拝登山が途絶えるのは残念ですね、と水を向けたら大英さんは 「そう言われれば、そうかもしれない」と苦笑した。大英さんは東京に住んでいる。引き継ぐのは不可能に近いのだ。

 太田家は変わっても、乗鞍岳山頂の大岩は何事もなかったかのように鎮座している。

<メモ> かつて牛倉山と呼ばれる

 十和田村史によると、乗鞍岳は昔、牛倉山や牛鞍山と呼ばれていた、という。なだらかな山の姿を牛に見立てたものとみられ、階上岳が臥牛山と呼ばれているのと同じ理由のようだ。その乗鞍岳山ろくで偶然の一致とはいえかつて牛が放牧されたのには、驚かされる。乗鞍岳には一の沢から、黄瀬沼から、赤倉岳からの3ルートから登れる。しかし1999年8月現在、赤倉岳からのルートはやぶが濃密で初心者は登山に苦労する。

(1999/9/11  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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