あおもり110山
(たかだおおだけ  1552m  十和田市・青森市)
 
■ 直線急登ルートのなぞ

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急な斜面に一直線につけられている高田大岳の登山道。体力を必要とするため、登山客はあまり多くない=1999年7月17日
 続く、続く。どこまで続くのだろう、と不安になるほど急な登りが続く。しかも一直線の道だ。多くの登山者は、あごを出す。約2時間半の登山を終え、山頂で休んでいる登山者は、疲れきった表情を見せていることが多い。また、登山口の谷地温泉から30分ほど行くと、長い長い湿地帯を通る。雪解け時期から夏までは、この道は川と化す。これを突破するのも登山者にとっては苦痛だ。

 が、登山道が湿地帯を縦断し、さらに一直線の急登になったのには、理由があったのである。

 高田大岳の登山道建設を指導したのは青森市の元県職員の今牧人さん(70)だ。高田大岳の登山道整備は、十和田湖・八甲田が国立公園に指定された当初からの課題だった。しかし、戦時中は手がつけられず、着工したのは1949(昭和24)年のことだった。谷地温泉の経営者の一人で八甲田の生き字引と言われた小笠原松次郎さんが「高田大岳はいい山だから、登山道を整備しよう」と県に働き掛けたのも着工の引き金になった。

 当時、県土木課公園係だった今さんは同年6月、土木業者と前線基地の谷地温泉に入った。ところが連日の雨。作業員は、1カ月も待機を余儀なくされた。予算は3万円。作業員の滞在費でどんどん予算が無くなっていく。今さんは、焦りが募った。

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睡蓮沼から見た高田大岳=1997年10月1日
 結局登山道建設は、晴れ間を見て行われ、正味1週間で完成させた。普通、高田大岳ぐらい急な山だと登山道はジグザグに付けられる。しかしジグザグに造ると予算をはるかにオーバーする。必然的に、最も短い直線急登ルートがひらかれたのだった。

 予算の都合もあったが、「ジグザグの道だと山に登ったという達成感が得られない」という今さんの信念も反映されていた。

 今さんは、戦時中は軍に所属、戦後は岩手山、姫神山、鳥海山など近県の山に集中的に登った。「軍にいたときは死ぬつもりだった。それが生きて帰れたから、生きる喜びを自分ができることでかみしめよう」 と登山を始めた。そして、体力を十分使ってこそ登山の達成感が得られる、という自分の哲学を身に付けたのだった。

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高田大岳山頂。遮るものが無く、360度の眺望が楽しめる=1998年6月30日
 雨に邪魔されず、予算を十分に使えたとしても直登ルートを造ったのか、と聞いてみた。今さんは「ジグザグに造ったかも。それでも、最後の急登は、一直線に造っただろうなあ」と言って笑った。工事完了の検査のとき、上司に「こんな直線的な道をつけるやつがいるものか」とこっぴどくしかられた。が、今さんは「あれが高田大岳の最高の道だと思っている。本当に山に登ったという実感ができるからだ」と今も信念は変わらない。

 湿地帯の中央を突破して道を付けたのも、う回路が長過ぎ予算をオーバーするからだった。「そのうちだれかが対策を講じるだろう」と暫定的に道をつけたわけだが、50年たった今も当時のままとなっている。

 大岳などと違い、体力のある少数の人だけ登ってきたため、高田大岳の登山道は荒廃を免れてきた。「けがの功名かもしれない。当時と様子があまり変わっていないのはうれしい」。今さんの眼光鋭い目は、このときばかりは、柔和な表情に変わった。

<メモ> テンが人気の谷地温泉

 津軽から北八甲田を見ると主峰は大岳のように見えるが、県南から見ると、紛れもなく高田大岳が北八甲田の主峰に見える。岩淵功著「八甲田の変遷」によると、「カウダに高田の字を当てたのだろう」と推論している。登山口の谷地温泉は、記録に現れるのは1800年代の前半だが、近くに樹齢400年の人工杉があることから、開湯は400年前とみられている。同温泉に1994年暮れから毎冬、テンが出没し人気を集めている。

(1999/8/21  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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