あおもり110山
(いおうだけ  1360.2m  青森市・十和田市)
 
■ サマー・アルペンスキー会場に

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かつて八甲田サマー・アルペンスキー大会が開かれた硫黄岳の大斜面=1997年4月14日、猿倉岳北斜面中腹から
 「ロープウエーが出来る前は、八甲田の山スキーの中心は硫黄岳と大岳。中でも大斜面を持つ硫黄岳は主役だった」。元東奥日報社常務取締役で本県のスキー振興に尽力した山田肆郎さん(77)はこう振り返る。酸ケ湯−毛無岱を経て大岳に登り、大岳−仙人岱−硫黄岳を一気に滑り降りて酸ケ湯に帰るのがゴールデンコースだった。

 この八甲田で、春に全国的なアルペンスキー大会を開こう、と話が持ち上がった。「当時本県スキーは距離王国だったが、アルペンも強化する必要があった」と競技面で開催を主張したのが山田さんと元県スキー連盟理事長の三上保さん。一方、観光開発の面で開催を強く求めたのが元青森市スキー連盟理事長の工藤善蔵さんと元酸ケ湯社長の大原誠一さんだった。

 名付けて八甲田サマー・アルペンスキー競技大会。青森スキークラブ(のちに青森市スキー連盟に改称)が主管し1958(昭和33)年、大会が仙人岱下の地獄沢で開かれた。2回目は大岳東斜面で開催、3回目から硫黄岳の大斜面に会場を移した。ゴールが傘松峠付近で、資材搬入や会場設営が楽なのがその理由だった。

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紅葉に映える硫黄岳。左は石倉岳=1997年10月1日、睡蓮沼から
 大会は毎年4月下旬−5月中旬に開かれ、スキー競技シーズン最後の大会として全国から400人が参加、盛り上がった。

 が、リフトが無い山のため裏方さんの苦労は大変なものがあった。長年、運営を支えた市スキー連盟の木村正義さん(60)は「パンフレット付け、プログラム作成に始まり、大会2日前から現地に入って準備した」と言う。

 硫黄岳斜面にポールを運ぶのが重労働だった。山頂からゴールまで約40旗門。1旗門にポールを4本使うから160本が必要になる。予備も含め約200本を運び上げるのだ。「1人が20−25本を一束にして肩に担いで登る。これを1人2回やる。きつかった」と木村さん。

 新雪が積もると、ひざまで雪に潜り、ポールを担いでの登山はつらい。強風が吹くとあおられ、ポールごと飛ばされそうになるため、必死にササにしがみつく。降雨のためせっかく立てたポールを回収して会場を移したことも。また強風でポールが旗ごと抜けてしまい、当日朝に慌てて設定しなおしたこともあった。新雪が降ったときのコース整備も裏方さんの仕事だった。

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硫黄岳山頂から見た小岳(左)と高田大岳=1998年3月24日
 「でも、競技自体の記憶は薄い。大会期間中7−8回山頂と往復し、それに精いっぱいだったので、選手が目に入らなかった。苦労したけど、みんなスキーが好きな人たちばかりなので、だれも不平を口にしなかった」と木村さんは懐かしむ。

 大会名はその後「サマー」が外れ85年の28回大会から、ロープウエー付近のスキー場に会場を移した。

 富井一、石岡千秋、沢田敦、岩谷高峰、千葉信哉、熊谷克仁ら多くの五輪選手も同大会で覇を競った。東義スキー部監督の川村勝儀さん(53)も東義時代、選手として参加した。「スキーを担ぎ山頂まで1時間かけて登った。本当にきつかった。普通の競技とは違うイメージだった。斜面は最高。欧州のゲレンデのようだった。でも私、あの大会では勝てなかったなあ」。川村さんはこう言って笑った。

<メモ> 不明者捜索で4人遭難死

 1957(昭和32)年、ハ甲田で4人が死亡する遭難が起こった。1月2日、酸ケ湯から大岳にスキーに行った埼玉県の男性が行方不明になった。3日、捜索隊が2班出発したが、この第2班9人が猛吹雪に見舞われ二重遭難。4日、硫黄岳東斜面で県職員吉田豊三さんと白戸酸ケ湯常務の二男直允君が、また6日には県職員の福井俊夫さんと中美雍一郎さんが硫黄岳すそ野で遺体で発見された。埼玉の男性は未発見のままだ。

(1998/5/30  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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