あおもり110山
(よごしやま  175m  平内町)
 
■ 昭和天皇来町で整備

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平内町の観光地としてすっかり定着した夜越山のサボテン園。「これらがサボテンの王様の金鯱(きんしゃち)です」と説明する山口さん=1998年12月中旬
 夜越山一帯にはいま、さまざまな施設が集約している。スキー場、サボテン・洋ラン園、温泉、ケビンハウスなどがある森林公園、そして県林業試験場。しかし1963(昭和38)年に同地で全国植樹祭が開かれるまで、一帯は牧野農協の馬の放牧地で原野が広がっているだけだった。すべては、植樹祭出席のため天皇陛下が来町されたことに始まったのである。

 第14回全国植樹祭の開催地が本県に内定したことを受け、県は林試設置に動きだし平内町に決まった。また、植樹祭に合わせ突貫工事で林試前に国道バイパスを建設した。これが今の国道4号だ。

 こうして63年5月20日、全国植樹祭が盛大に開かれたが、「せっかく由緒ある地になったので、夜越山を整備しなければならない」という船橋茂町長の肝いりで68年、スキー場が開設された。

 その次の施設がサボテン園だった。「冬以外、人が訪れなかったので、北国では見られないサボテンを見せよう、ということになった。併せて花の振興も目指した。水田減反が始まったころで、コメに代わる作物が欲しかった。サボテン園は、当時の発想としては珍しい、観光と農業の両立をめざした」と町教育次長の小形征博さん(60)は開設の動機を振り返る。

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建設前、三浦雄一郎さんに太鼓判を押してもらい1968年にオープンhした夜越山スキー場=1998年2月下旬
 サボテン栽培の技術者として山口繁治さん(71)に白羽の矢が立った。山口さんは五所川原市飯詰出身。同市で稲作を営んでいたが、一念発起してサボテン栽培に転向。同市で7年間栽培したあと、浪岡町大釈迦にハウスを建てここで4年間栽培していた。

 そんな折、平内町から「こっちに来て、サボテンを栽培してほしい」という誘いを受けた。自宅を建て、経営も軌道に乗っていたため家族は反対したが、町の情熱に打たれ山口さんは移住を決意した。「勇気なんてもんじやない。断がい絶壁から飛び降りるような心境だった」

 町が用意してくれた住宅に移り住んだのは71年12月のことだった。温室も町が建設、至れり尽くせりの環境の中で山口さんの新たなサボテン栽培が始まった。こうして72年7月、サボテン園がオープンした。官民合体事業。今で言えば第三セクター方式だが、当時としてはあまり例がないやり方だった。

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夜越山山頂から見た白鳥の飛来地・朝所海岸。山頂はハイキングの休憩地に最適で=1998年9月上旬
 山口さんは「そのうち洋ランが脚光を浴びる時代が来る」とかねてから提唱。86年からは洋ランを中心とした熱帯植物園も登場した。98年現在、サボテンなど多肉植物は3,500種。東北一の規模だ。また、ランは約300種で、芸術性の高い展示が自慢だ。ピーク時の入園者は年間10万人を超えたが、いまは8万人強で推移している。

 「平内に来て、本当に良かった。良い人々とも巡り合えたし。寒い地で大変ですね、とよく言われるが、条件の整った地で栽培してもうまくいくとは限らない。遠くに行かなくても南国の植物をお見せできるのが園芸のだいご味。なんてったって園の芸術なのですから」。山口さんは誇らしげにこう言った。

 開設当初は観光と農業の両立をめざしたサボテン園だったが、農業(花き振興)の方は不発だった。農家が稲作にこだわったのが原因だった。小形さんは「でも、観光施設として定着したんだから良しとしなければ」。すこし複雑な表情を浮かべた。

<メモ> 森林観察の遊歩道を整備

 県林業試験場の組織が発足したのが1961年12月。当時は建物が無かったため、県庁の一室が事務所に充てられた。建物は62年7月に完成したが、試験研究が始まったのは、63年の全国植樹祭が終わってからのことだった。

 夜越山には、遊歩道が網の目のように整備されており、それぞれの道で森林を観察できるようになっている。また、山頂からの浅所海岸の眺望は素晴らしく、行楽に訪れる人が多い。

(1999/1/30  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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