あおもり110山
(やちやま  180.7m  青森市)
 
■ 石仏に導かれる遊歩道

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谷地山中腹から見た浅虫温泉と陸奥湾。この眺めが藩政時代から人気を集めてきた。左側は湯ノ島=1997年5月19日
 青森市浅虫地区と久栗坂地区との間にある小高い山だ。5月中旬に訪れてみた。八幡宮、青森病院、陸奥護国寺の3カ所から登れるが、どこから歩いても石仏に導かれ山頂に着く。

 道は歩きやすい。青森市が1980(昭和55)年に整備したものだ。ヤマツツジ、ウワミズザクラ、キバナイカリソウ、マイヅルソウ、タニウツギ、チゴユリ、ユキザサ、クルマバソウ、ニリンソウ…。本県の里山でおなじみの花が迎えてくれる。木々の間から真っ青な陸奥湾がのぞく。77-78番の石仏の辺りで一気に眺望が開けた。浅虫の街並み、裸島、湯ノ島、陸奥湾が目に飛び込んできた。

 昔、海岸線に道が無かった時代、青森と浅虫の往来は谷地山を通ったらしい。その証拠に、街道筋の並木として植栽されたとみられるクロマツの巨木が谷地山にある。

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登山者を山頂まで導いてくれる石仏(第42番の大日如来)=1997年5月19日
 また、山頂近くにある陸奥湾展望台は、津軽藩の藩主が浅虫に本陣を置いて遊んだとき、陸奥湾を眺めるために訪れた、と伝えられている。

 谷地山は、戦前までは子供たちの遊び場だった。浅虫林業振興協議会会長の横川広一さん(73)は「ほかに遊ぶ場所が無かったから谷地山で戦ごっこをしたもの。夜、山に泊まったときは、父親からこっぴどくしかられたっけ」と懐かしそうに振り返る。

 中腹に、中世の有多宇未井(うとうまい)館跡がある。吾妻鏡によると、1189(文治5)年の大河兼任の乱の際、最後の攻防の地が有多宇未井とされているが、この古戦場と館との関係は不明だ。横川さんは浅虫小2年のとき先生に連れられ、みんなで館跡を掘ったことがある。石の矢じりなどを発掘、今も浅虫小に保存されている。

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谷地山の全景=1997年5月13日、青森市久栗坂の国道4号から
 浅虫地区の佐藤順治さん(78)は「ねぶた発祥の地は浅虫だ、と子供のとき聞かされたものだ」と話す。坂上田村麻呂が蝦夷征伐をしたとき、谷地山で苦戦。そこで谷地山にねぶたを置いて蝦夷をおびき出し征伐した、というのがその内容。青森市雲谷に残る言い伝えと同じだ。

 伝説が多く残っている里山は36(昭和11)年に大きく変わった。堤隆興尼が、ふもとに陸奥護国寺を開山したからだ。開山のいきさつを三世住職堤尚義さん(58)は次のように語る。「隆興尼は久栗坂生まれで、夫は北海道でニシン漁を大規模に営んでいた。お金を蓄えたので、隆興尼はニシンの供養のため寺を開いた、と聞いている」

 和歌山県の高野山遍照尊院の分院として開き、四国八十八カ所を摸して、寺から山頂への周回道に88基の石仏を設置した。この石仏を引き上げるとき、ロープが何回も切れた。このため、女性信者1万3千人の髪をロープ状に編んで使った、という。毛綱は寺宝として保存され、毎年10月21日の開山法要のとき、併せて毛綱法要を執り行っている。

 八十八カ所を模したのは「四国は遠いから、その代わりにお参りできるように」という隆興尼の発想だった。石仏には番号と寺名が刻まれている。これは八十八カ所巡りの順番と同じ寺名だ。そして、その寺の本尊が石仏で表現されている。

 かつて、わんばく少年の遊び場だった谷地山はいま、お参りに来る人たちの安らぎの揚となっている。

<メモ> 人気の浅虫温泉森林公園

 谷地山の隣に浅虫温泉森林公園(県営水族館裏)があり、ハイキングに訪れる人たちでにぎわっている。同地は浅虫財産区有地で、有効利用を図るため青森市に公園化を要望し実現した。1985(昭和60)年から樹木の間伐や植栽、遊歩道造成が始まり、88年に運動広場、テニスコート、5.8kmの遊歩道などが完成した。86年には「森林浴の森・日本百選」の一つに選ばれた。陸奥湾展望所からの眺めは人気がある。

(1999/5/15  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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