あおもり110山
(ならのきもりやま  487.1m  青森市)
 
■ ナラ林の懐かしい景観

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楢木森山中腹の活力あるミズナラ林。林床で咲いているのはヤマツツジ=1997年6月16日、登山道付近から
 かつて、集落の背後にはナラの林が多くあった。人々はまきなどに利用、長い間、ナラの林と上手に付き合ってきた。が、住宅地に変わったり杉や松林に変わったり、と気が付いてみるとナラ林は随分少なくなった。

 「独立した山で植生の主体がナラのところは、今ではあまり見られなくなった」と県治山課森林保護班の工藤樹一班長は言う。その数少ない山が楢木森山だ。まさに名の通り。ミズナラを主体にシナノキなどが混じる、懐かしい景観が広がっている。

 楢木森山の山頂を境に東側は国有林だが、西側は昔から青森市戸山、小柳、沢山(いずれも旧浜館村)の、まき材を採る共用林だった。

 伐採のため山に入る日は、3地区の長が話し合って決めた。その日を“山あけ”と言った。毎年10月ごろで当日、戸山200戸、小柳150戸、沢山30戸が一斉に山に入った。伐採の範囲は沢山地区の神社から楢木森山にかけての400−500haだった。

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反射板が撤去されたため、山頂からの青森市街地の眺望は抜群なものとなった=1998年2月25日
 「どの場所の木を切ってもよかった。好きな場所の木を切ったんだ。女性の家庭は集落近くの細い木、若者がいる家庭は山の上の太い木を切った。多くの人が沢山に集まり楽しかったなあ。若い人たちと知り合ったり話し合う機会だった」。父が戦地に行っているため、小学4年のころから母と2人でこの作業に従事した木材業川口重成さん(63)=沢山町会長=は懐かしそうに振り返る。

 切った材はその場に積んでおき3月ごろ、手製のそりで沢山まで運び、そこから馬そりに積んで各家庭に運んだ。そして軒下に積んで乾燥させ翌冬のまきを確保した。5たな(500立方m)あれば十分だった。

 旧浜館村は1955(昭和30)年1月、青森市と合併した。この合併が山に大きな変化をもたらした。共用林を利用してきた人たちは「合併すると、山が自分たちのものでなくなる」と思い込んだのだ。そして合併の3−4年前、共用林の権利を持っている人たちで“個人分け”してしまった。1人当た0.6-0.7haだった。

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沢山地区から望む楢木森山。ミズナラ、シナノキ、ヤマモミジなどが色づく=1997年10月19日
 あれから40年余。杉林に変えた人もいる。売った人も多くいる。沢山で会ったおばあさんは「車を買うため山を売った」と教えてくれた。林道に面していない所有者は、木の搬出ができないため放置したまま。楢木森山の中腹以上のミズナラが、樹齢40年くらいの太さでそろっているのは、このためだ。

 今でも自分の山からまきを採ってきている人は沢山に数戸ある。川口さんも一昨年まで、暖房やふろなど家庭用の燃料はすべて山から採ってきたまきで賄ってきた。今は燃料には使わないが、シイタケやナメコの栽培にミズナラを利用している。「朝、起きれば楢木森山を見るのが長年の習慣になっている」。川口さんにとって楢木森山は生活に密着した山だ。

 川口さんは86年、立木の権利を買って楢木森山の一部を伐採したことがある。チップ用材をとるためだった。しかし、木材価格が安いため採算に合わず、途中でやめた。「ナラは県内にある木で最も使い道のある木だ。あと50年くらい育つと、用材として価値が出る。楢木森山はいい山になる。でも、そのとき私は生きていない」。そう言って川口さんは笑った。

<メモ> 山頂にあった電力反射板

 楢木森山山頂には1961年10月から1997年7月まで、東北電力のマイクロウエーブ反射板があった。青森市街地から夕方に見ると西日が当たって光り、非常に目立った。同社青森支店から大鰐町、秋田市などを経由して仙台市の本店を結ぶ、同社独自の日本海回りの回線で、電気に関する情報送信や保安電話に使っていた。回線をデジタル方式に変えたのに伴い反射板を撤去し中継所を青森空港近くの鳥屋森に移した。

(1998/4/11  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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