あおもり110山
(もやとうげ  533m  青森市)
 
■ スキー場の装い一新

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オープン以来約40年ぶりに大改修され「モヤヒルズ」として生まれ変わった雲谷スキー場=1998年2月23日、石雲谷から
 今でこそ雲谷峠は、青森市民が気軽に訪れることができるスキー場として知られているが、以前は青森市浅虫が“市民スキー場”としての役割を担っていた。手狭になったため場所を同市戸山に移し一時使用したものの、地権者との折り合いがつかず、新たなスキー場の確保が必要となった。

 ここで浮上したのが雲谷峠だった。1934(昭和9)年、当時青森商業銀行頭取だった2代目大坂金助さんが雲谷峠の下にヒュツテ雲谷荘を建てスキーを楽しんだ以外は地元の子供たちが滑る程度で、雲谷峠はスキー場として日を向けられてこなかった。

 青森スキークラブの幹部らが市に「雲谷に市営スキー場の建設を」と要望したが、市は消極的。こういう状況の中、運動具店イシダスポーツ社長の石田治男さん(79)が仲間の協力を得て刈り払いしロープトウを設置、59年12月、雲谷スキー場がオープンした。

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全長1,190m。日本最長が自慢のローラー・リュージュのコース=1998年9月2日
 「ここは眺めがいいし、以前からスキー場適地と思っていた。青少年に夢を与えるためとスキーを売るため、ロープトウを造った」と石田さんは振り返る。ロープトウの動カは、四輪駆動車のエンジンを利用するなど苦心の作。ヒュッテも石田さんが造ったほか、市内の企業も建設、客の便宜を図った。さらに石田さんは65年ごろからナイタースキーを始めた。「スキー場整備は本来、行政がやるべきものだが、結局私財を投げ打った。いま考えれば、うそみたいな話だ」と石田さん。

 市は、スキー揚がオープンした翌年の60年にリフトを建設、雲谷はスキー場としての形を整え長い間、市民から親しまれてきた。しかし、駐車場が狭いうえ、施設が時代に対応できなくなったことから大改修を求める声が年々強まっていった。とはいっても雲谷では20数社がスキー場営業に関与しており、権利などの問題でなかなか改修に踏み切れなかった。

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山頂付近から離陸、空中散歩を楽しむパラグライダー愛好家=1995年5月14日
 佐々木誠造市長になってから、改修に向けて一気に動きだした。権利関係を整理し、通年観光を目指したモヤヒルズとして衣替えし98年4月、全面開業をした。スキーシーズン以外でも日本最長が自慢のローラー・リュージュ(1,190m)を楽しむ人や秋のコスモスを観賞するため雲谷を訪れる人は多い。また、バラグライダーで空を舞う愛好家も見られ、雲谷のイメージは以前とは随分変わった。

 ところで、雲谷峠のふもとにある小さな集落雲谷地区の歴史は古い。津軽藩が1631(寛永8)年、馬産のため5牧を開いたが、その一つが雲谷だった。雲谷牧の牧頭の末えいで雲谷に住んでいる川越昭四郎さん(69)に古地図を見せてもらった。それによると、三角形をした雲谷峠はその昔、大雲谷山、大雲谷、雲谷森などと呼ばれていた。「牧の名残で、雲谷峠は戦前まで、雲谷地区の農家の馬の放牧地として利用された」と川越さんは言う。

 川越さんも雲谷スキー揚と深くかかわってきた一人だ。小学生のときから雲谷でスキーを楽しみ、スキー場ができてからはヒュッテを経営してきた。また、今は登らなくなったが長年、元旦に雲谷峠の山頂に登り神社(今は下にある)に参拝し続けた。「雲谷峠は、私の生活の基盤であっただけでなく心の支えだ。人生のすべてだ」。川越さんは、こう言い切った。

<メモ> さまざまな伝説に彩られる

 青森市の児童文学者北彰介さんが祖母から聞いた民話によると、八甲田と岩木山がけんかをしたとき東岳はとばっちりを受け、八甲田に切り飛ばされた首が雲谷峠になった、という。また、雲谷にいた蝦夷のオヤスとトンケイ姉弟が坂上田村麻呂に滅ぽされた、という伝説もある。雲谷地区の古老は今もこの山を蝦夷の英雄の名にちなむ「雲谷のトンケ」と呼んでいる。地図作成者はトンケに峠の字を当て雲谷峠と表記したようだ。

(1999/2/5  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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