あおもり110山
(ひきのこしやま  266.7m  平内町)
 
■ 採石で削られ今の姿に

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採石で削られた岩肌をさらしている引ノ越山。以前は整った姿の山だったという=1998年4月30日、平内町小湊−内童子の町道から
 平内町小湊の国道4号から南側を見ると、ものすごく急な山が目に飛び込んでくる。これが引ノ越山だ。県内の山でこれほど奇異な姿をした山は無い。

 地元の人たちが「引ノ越山は以前、とても形の良い山だった」と言うように、もともとこのような姿をしていたのではない。採石業者が山を半分削ったため、いま見られるような山になったのだった。

 引ノ越山は同町内童子地区のシンボル的存在だった。干ばつのときは山にこもり、雨ごいをしたこともある。また1957(昭和32)年から数年間、お山参詣が行われた。同地区の農業蝦名兼作さん(73)は「山を大事にしよう、との願いを込めて、青年団員の私たちが始めた」と言い、同地区の会社員蝦名昭夫さん(58)は「彼岸の中日にやった。30人ぐらい登り、山頂に立てないほどにぎわった」と振り返る。

 昔から引ノ越山の表面は部分的に岩が露出しており、岩山であることは多くの人が知っていた。これに採石業者が着目した。まずA社が62年から採石を始め65年以降、B社、C社が次々に入り計3社が山を削り石を採った。

 兼作さんはA社に採用され事務仕事に従事した。「引ノ越山の石は安山岩で、固くて水分吸収率が線路の敷石に適していたので、主に国鉄(現JR)が使った。コンクリートの材料にも使われた」と兼作さんは話す。

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引ノ越山山頂付近から、自分の集落・内童子地区を見下ろす蝦名昭夫さん=1998年6月2日
 一方、昭夫さんはC社に動めた。原石をダンプカーに積み、採石工場まで運ぶ仕事に主に従事した。目がくらむほどの急斜面での運転。通路は狭く、路肩も弱い。「いつ死ぬのだろう、とそればかり考えて仕事をしていた」と昭夫さん。

 今でこそ採石の方法のルールが確立されているが、当時はそのようなものがなかった。3社は山の西斜面を三方からしゃにむに崩していった。粉じん公害も発生、苦情が絶えなかった。

 そのうち業者から「下から崩すのは難しくなった。山頂から崩せば楽だ」との声が上がった。兼作さんは「山頂は残すべきだ」と反対、町役場も「この山は漁民が網を立てるときの目印にしているので」と山頂から東側の町有地を業者に売らなかったいきさつがある。

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削られる引ノ越山を惜しんで八戸喜代四さんが描いた絵=内童子小保管
 石の掘り方の規制が厳しくなり生産性が落ちたころ第1次石油ショョク。経営が立ち至らなくなりA社とB社は75年に撤退、残ったC社も80年に採石をやめた。結局、3社とも倒産したため緑化復元の義務を負うべき事業者が無くなり、山は当時のまま放置されている状態だ。

 地区のシンボルを自ら崩すことに抵抗がなかったのだろうか、と2人に聞いてみた。

 「会社に地元から大勢雇用されたので抵抗は無かった」と兼作さん。また昭夫さんは「生活がかかっていたんだ。内童子の半分以上の人は採石会社に勤めていた」。2人の答えは同じだった。

 昭夫さんと引ノ越山に登ってみた。急斜面を木につかまりながら登ること約30分。かつて眺めが良かったという山頂は、今は登る人がいないため木が茂り、眺望が得られなかった。昭夫さんが山頂に立ったのは約25五年ぶり。

 「今、山の姿を見ればなんとなく寂しい。でも山は半分残っているさ」。昭夫さんはすこし困ったように笑った。

<メモ> 削られる前の姿、絵に残す

 「夜越山は昔、引ノ越山の近くにあったが、ヤマセ防止のため神様に頼んで夜のうちに現在地に移してもらった。これにより内童子のヤマセ被害が少なくなったが、引ノ越山も移動させられそうになったため、力自慢の童子に頼み引き残した」という伝説がある。引ノ越山が無くなってしまうのでは、と心配した内童子小学校第18代校長のハ戸喜代四さんは、まだ削られる前の山を1971年に描き、絵を同小に寄贈した。

(1998/8/15  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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