| 2000年10月13日(金) |
六ケ所再処理工場へ使用済み核燃料を搬入する前提となる安全協定と覚書が十二日、締結された。調印式は青森市のホテル青森で行われ、木村守男知事、橋本寿六ケ所村長、竹内哲夫日本原燃社長の協定当事者三人と立会人の太田宏次電気事業連合会会長がそれぞれ署名した。協定締結により、早ければ年内にも全国の原発から使用済み核燃料の搬入が始まり、二〇〇五(平成十七)年七月の再処理工場操業開始までに千六百トンが運び込まれる。協定は二十三の条文で構成。試験用燃料搬入のための安全協定(一九九八年七月締結)を基本的に踏襲した内容だが、東海村臨界事故などを踏まえ、事業者の責務として「住民への積極的な情報公開」の条項を新たに設けた。防災対策に関しても、原子力災害の可能性を想定した上で「被害の拡大防止や復旧に必要な措置を講ずる責務」などを付加した。 調印式には小中元秀科学技術庁審議官、大井篤資源エネルギー庁公益事業部長が同席。調印を終え、木村知事は「燃料受け入れ、貯蔵に当たっては協定事項を順守し、安全確保第一に万全の態勢で臨むよう求める」、橋本村長は「安全な事業遂行とともに、村の地域振興に特段の理解と支援をお願いする」とあいさつ。また竹内社長は「再処理事業の確実な実施に向けた大きな前進であり、感激する一方、あらためて安全に対する責任の重大さを痛感する」と述べた。 一方、大島理森科技庁長官は協定締結について「わが国の核燃料サイクル確立に向け大きな進展と受け止めている。」との談話を発表した。 <解説> 再処理工場の操業開始は二〇〇五(平成十七)年なのに、なぜ今から使用済み核燃料を搬入しなければならないのか−。県民の素朴な疑問に対し、電力業界はついに本音を隠したままだった。 搬入を急ぐのは全国各地の原発で使用済み核燃料があふれ出したから、というのは電力業界では常識だ。東京電力・福島第二原発では六月末現在、貯蔵量はプール容量の九〇%を超えた。にもかかわらず「再処理前に使用済み核燃料を冷却する期間として四年以上必要」と日本原燃は説明し続けてきた。 「再処理しなければ使用済み核燃料を原発から搬出できず、発電を止めなければいけない。(再処理費用の負担より)その方が経済的損害は大きい。再処理して出てきたプルトニウムを貯めておくと外国から原爆に使うんじゃないか−と見られるからプルサーマルも必要。これが正直な話で、国も電力会社も変な理屈ばかりつけていないで、本音で語るべき」(豊田正敏・日本原燃サービス元社長)。電力業界の“情報公開”については、業界内部からもこんな嘆きが漏れる。 「原発は総電力量の三五%を占め、経済社会活動を維持発展させていくためには核燃料サイクルが必要という現実がある」。こう強調する木村守男知事の論理も飛躍がある。 原発を推進してもサイクルはしない選択肢があるからだ。世界的にみれば再処理推進国はむしろ少数。だが、推進側はこの点を県民に説明せず、原発を運転する限り再処理は必要−との誤解を与えてしまっている。電力業界が今必要としているのは、中間貯蔵施設であって再処理工場ではない。 表面だけを取り繕った事業が県民の信頼を得られるのか、疑問が残る。 ◇ 使用済み核燃料搬入に関する安全協定問題で、四団体が十二日、県庁周辺で相次いで抗議集会を開いた。 ▽県反核実行委員会と核燃料廃棄物搬入阻止実行委員会 県庁前で今村修代表が「安全性や核燃料サイクル政策の見極めそっちのけで、津軽海峡大橋を安全協定締結の条件に持ち出した知事は県民への説明責任さえ果たしていない」と批判。平野良一委員長が「プルトニウム利用政策は必ず破たんする。亡くなった高木仁三郎・原子力資料情報室前代表の遺志を引き継ぎ、希望を持って運動を続けよう」とあいさつ。抗議声明を採択した後、参加者約百二十人が「青森県を核のゴミ捨て場にするな」とシュプレヒコールを上げた。 ▽県労働組合総連合と核燃料サイクル施設立地反対連絡会議 青森市の青い森公園で抗議集会を開催。小笠原美徳県労連議長は「協定を呼び水にすべての核のゴミが六ケ所に集中する。津軽海峡大橋や地域振興策を引き換えにした締結は県民を二重三重に愚ろうする暴挙だ」と訴えた。締結に抗議する決議を採択した後、参加者約百人が市街地をデモ行進した。 また、原子力資料情報室(伴英幸共同代表)、核燃サイクル阻止一万人訴訟原告団(浅石紘爾代表)なども抗議声明を発表した。
八戸遺跡調査会(市川金丸会長)が発掘を進めている八戸市内丸一丁目の八戸城跡で見つかった古墳時代の土坑から十二日までに五世紀後半とみられる須恵器の破片が出土した。遺構からの五世紀の須恵器出土は、県内では天間林村の森ケ沢遺跡に次ぎ二例目。県内では四世紀から六世紀にかけての遺構は極めて少なく「空白の世紀」と呼ばれるが、八戸地区では今年に入って四世紀の続縄文式土器が県内で初めて遺構から出土。また、六世紀の住居跡が東北北部で初めて見つかっており、今回の須恵器と土坑の出土で、空白が埋まる形になった。八戸城跡は公園整備事業のため六月から発掘が始まった。須恵器片は「*」(はそう)と呼ばれる、胴部に穴が開いた直径十センチほどのつぼのもので、竹管などを挿入し注器として使われたとされる。特徴から時期は五世紀後半、産地は特定されていないが近畿、東海などとみられる。 最初の一片が八月二十八日、撹(かく)乱を受けた層から見つかり、九月十八日に残る二片が土坑内から出土、互いにほぼ接合した。発掘地点は縄文早期から昭和にかけての遺構が複雑に入り組んでいるため慎重に調査を進めた結果、十二日までに、この土坑が古墳時代のものであることがほぼ確実になった。 発掘地点からは同じく五世紀の南小泉式土師器とみられる丹(に)塗りの坏(つき=椀状の器)の破片が見つかり、また昨年の調査で同時期の坩(かん=丸底の小型つぼ)の破片も出土した。 これら三種類の器が遺構を伴って見つかったことから、調査に当たっている市教委文化課の小保内裕之主事は「五世紀後半、この地に確かに人が生活していた痕跡とみられる」と話す。 今年の一連の発掘で八戸地区は、縄文早期から中世に至る遺跡・遺構がほぼ出そろった。 ※文中の「*」は「瓦」の右側に「泉」 ※写真は5世紀後半の須恵器片が見つかった発掘現場=9月19日 |