| 2000年8月28日(月) |
![]() | 第3号 |
【大鰐町蔵館小六年・羽賀香織】 北海道の有珠山噴火で農畜産業、商業に大きな被害があったが、私たちの修学旅行にまでそのえいきょうが及び、楽しみにしていたルスツ高原や洞爺湖に行けなくなってしまった。大鰐町蔵館小では、代わりに大沼公園・函館コースに行ったが、今回の噴火で弘前市や大鰐町の小学校の修学旅行が、どのように変更になったのか調べてみた。また、児童たちが行き先変更をどのような気持ちで受け止めているのかについても聞き取り調査をしてみた。■修学旅行の行き先の変化
弘前市教育委員会と大鰐町教育委員会で取材したところによると、両市町の小学校の修学旅行の行き先は、「函館・洞爺・ルスツコース」が平成十年九七%、十一年が九一%とほとんどの学校が、このコースを旅行。「函館・大沼コース」は三−六%であまり行っていなかった。ところが、噴火で洞爺湖・ルスツ高原には行けなくなったため、今年の行き先は「函館・大沼コース」が八五%と非常に増え、新しく仙台・松島コースに行った学校もかなりあった。函館に二泊した学校や松前に行った学校もあった。噴火のえいきょうが、明らかだった。 ■「函館・大沼コース」への変更 当初、「洞爺・ルスツコース」に行く予定だったが噴火のため「函館・大沼コース」に変更になった大鰐町蔵館小と弘前市福村小の六年生に(1)修学旅行で行きたかった場所はどこか(2)今回の修学旅行でで一番楽しかった場所はどこか(3)コースが変更になったことへの感想−の三点について聞いてみた。 それによると、児童の多くは、やっぱりルスツ高原に行きたかった、と残念そうに答えていた。しかし「ルスツに行けなかったのは残念だったが、変更になったコースも面白かった」と答える児童が多く、それなりに楽しんだようだった。 ■「仙台・松島コース」への変更 「仙台・松島コース」に変更した大鰐町大鰐小の六年生にも同じ質問をしてみた。それによると、みんな「楽しかった」「コース変更でよかった」と喜んでいた。 ※写真はあこがれのルスツ高原にはいけなかったが、今回の旅行で児童に人気のあった大沼ワールド牧場
【五所川原市南小六年・齋藤麻南】 東奥こども新聞は今回で第三号となった。子供だけですべての記事を書いている新聞はめずらしいらしく、反響が大きいと聞いた。なぜ、こども新聞を発行したのか。東奥日報社は何を考えているのか。それを一番よく知っているのは社長さんのはずだ。そういう訳で、東奥日報社社長の佐々木高雄さんに直撃インタビューしてみた。−東奥日報社はどんなことを目指していますか 「NEWS(ニュース)は、東西南北の英語の頭文字。一つの方向がNEWSじゃない。いろいろな所からいろいろなNEWSが生まれる。そのいろいろな情報をみんなに知らせるのが私たちの仕事。百十二年前から、みんなが“井の中の蛙(かわず)”にならないよう『知りたい!』という声にこたえている」 −自慢できることは 「すばらしく優秀な新聞記者がたくさんいることです」 −これから企画したいことは 「県民の声をもとに、たくさん企画を考えていきたい。みんなに喜んでもらえる企画記事を記者が書くので楽しみにしていてください。期待して!」 −新聞発行以外では何をやっていますか 「みんなの役に立つこと、喜んでもらえることをして、新聞社としてお返ししている。例えば、本の出版、展覧会、花火大会、良い商品の紹介など。ほかにも三内丸山遺跡や内モンゴルの遺跡調査のお手伝いもしているんだ」 −不安な点は何ですか 「青森が、日本が、世界が、これから平和でいられるかが心配です。平和であるために、私たちは努力しなければなりません」 −なぜ新聞社の社長さんになったのですか 「むずかしい質問だな。答えられないね。社員のみんなの応援でなったのでね。なりたくてなった訳じゃない」 −社長さんの仕事は何ですか 「社員がいい仕事をできるような環境をつくること。社員に給料あげなきゃいけないんだ。だから一番忙しいんだ」 −なぜ、こども新聞を発行したのですか 「青森に生まれた喜びを自分の目で見て、自分で表現したら、どんな新聞ができるだろうか、と思ったから。未来をたくす君たちに東奥日報という紙面を提供、何を考えどんな生き方をしたいのか、その第一歩を新聞作りで踏み出してもらいたい」 −こども新聞をどんな気持ちで読んでほしいですか 「こども記者の君たちは、仲間にどう読んでもらいたいのか、ということだ。新聞記者はハートで記事を書く。だからハートで読んでほしい。球を全力で投げるピッチャーのように全力で書いてほしい。そうすればきっと伝わる。そして、君の仲間が『これはいい』と喜んでくれる、笑顔を見せてくれる、そんな記事を書いてほしいし、そんな気持ちで読んでほしい」 −こどもたちに言いたいことは何ですか 「いろいろな方向から見てみなさい。そうすると、ちがうものがみえてくるかもしれないよ。頭をやわらかくしなさい。好奇心を持ちなさい。少年の心を大人になるまで持て。大人になっても持て。知らないことは恥じやない。物おじしないでどんどん聞きなさい」 「本を読みなさい。本はいくら読んでも頭がこわれない。手当たり次第読めばいい。テレビゲームはすぐ結論が出るが、本はちがう。本は君が大きくなってから結論を出す。あぁ、あの本を読んでおいて良かった、と思う時がくる。あとできっと役に立つはずだ!」 ◇ 社長さんは、意気揚々とお話ししてくれた。心もでかい、声も大きい。そんな社長さんの話を聞くと、東奥日報社への関心があふれてきた。もっと社長さんとお話ししたい、と思った。 ※写真は取材を終えて佐々木高雄東奥日報社社長と握手する齋藤麻南記者=8月8日東奥日報社社長室で
【青森市堤小五年・工藤里仁】 新聞記者は、どのようなことを考え、どのように取材しているのだろう。それを知るため七月二十六日、東奥日報社編集局地方部の榊寿子記者が県立浅虫水族館などを取材するのに同行してみた。榊記者は子供のときから新聞を読むのが好きで、みんなに、いろいろなことを知らせたくて新聞記者になった、という。 そんな榊記者だが「最初のころはこころぼそく、先ぱいにいろいろ教えてもらい必死だった」という。しかし、今ではドキドキしないで、子供を育てながら記者生活を毎日を楽しくすごしている。 記者の苦労はたくさんある。たとえば、じしんのとき、自分の家がしんぱいになっても取材に行く。青森市の記録的な大雨が降ったときも取材に行った。 しかし、苦しいことばかりではない。「会ったことがない人と話ができる。いろいろな人と会える。それがうれしい」と榊記者は話す。そして、取材してきたことを「多くの人にうまく伝わるように」と考えながら記事を書いている、という。 東奥日報社では男性三百八十に人、女性六十三人の四百四十五人が働いている。十年前までは女性が記者があまりいなかったが、すこしずつ女性記者がふえてきている、という。 ※写真は浅虫水族館で取材する東奥日報社の榊寿子記者(右)
まず、各お店からチラシづくりの依らいを受け交しょう。枚数、大きさ、色などを決め、レイアウトする。そして、配る地域を決定し、校正する。レイアウトは、お客さんが指定するときもあるが、まかせられることも。原こうのデータは、MO(光磁気ディスク)やフロッピーディスクに入れて持ち込まれるときもあるという。 次は、製作・印刷だ。レイアウトしたものをフィルムにして焼きつける。それを印刷機にかけ、製本する。出来上がったチラシは、折り込み予約をしてから、各新聞販売店へ持っていく。 チラシの種類で多いものは、売り出し(セール)、パンフレット、業務案内だという。紙は、色がついている色上質紙、これから色をつける上質紙、写真を入れるコート紙の三種類が主なものだ。 チラシの製作日数は、普通、一−二色では一週間、カラーでは十五日ぐらいかかるそうだ。 このようにして出来上がったチラシが新聞に折り込まれ、私たちの手元に届くのである。 ※写真(上)は出来上がったチラシをチェックする印刷会社社員。右の大きな機械が印刷機 ※写真(下)は出来上がったチラシ
県内の今年の山での遭難は七月末現在、二十五件発生、このうち山菜採りでは十八件発生し、死ぼう二人、じゅうしょうが三人だった。今年の特徴は、遭難が五月より六月が多かったこと、六十歳以上の人が九割をしめたこと−などだった。
大鰐警察署かんないでは昨年度は、キノコ採りに一人で行って途中で病気になった一件だけ。今年度は、春の山菜採り二件(ともに六十歳代)だった。二人とも道に迷い、一人は自力下山、一人はヘリコプターにきゅうじょされた。佐々木課長は、遭難防止のため心がけることとして(1)二人以上で行く(2)食料、雨具のほか、薬、磁石、笛、ラジオ、鏡、はつえんとう、マッチかライターを持つ(3)家族に行き先、帰宅時間、駐車場所を必ず話す(4)天気予報を確認し、地図で山の地形をはあくする(5)山に入ったら、おたがい声をかけあい、急しゃ面をさける(6)目標になる地形をおぼえてから山に入る−などをあげた。
そして、万一、山で迷ったら「歩き回らないこと。とくに日ぼつ後歩くのは危険。ヘリコプターの音が聞こえたら、広い場所に出てタオルや手をふること」とアドバイスしてくれた。また、入山者が多い山に足をふみ入れると、空きかんや空きびん、食べ残したものなどが散らかっている状態で、山の動植物への影響がけねんされる。長年山菜採りをしている人たちは「入山者は、自然保護にもっと関心を持つべきだ」と近年の入山者のマナーの悪さに、顔をしかめている。 ※写真(右)は山に捨てられたごみ。入山者が増えるにつれ、マナーの悪さが目立ってきた ※写真(左)は遭難防止を呼び掛けるポスター
【野辺地町有戸小六年・大関俊一】 雪印乳業の食中毒事件に対し、どのように考えているのか六ケ所村倉内酪農協の蛯名敏則組合長に話を聞いた。組合長は「牛乳生産者は、今回の事件を心配しなくてもいい」と語った。今回の雪印事件をどう思っているかについて蛯名組合長は「私たち農家と雪印乳業は深い関係にあるが、青森の製品では何も起こらなかった。青森県では三十トンの牛乳を加工しているが、(事件があった)大阪では九万トンも加工しているから、大変な被害を受けただろう」と話した。 農協は農家に対して、どう思っているのかについては「農家の人たちには、農協の役目を分かってほしい。農家がしんせんな牛乳をつくり、それを農協が売る。それを分かってくれればいい。あと、農家は、今回の事件については、何も心配しなくていい」と語った。 県経済連も取材してみた。経済連は、県内から来た牛乳をけんさし、各メーカーなどに売る仕事をしている。乳量、クエン酸など十一項目のほか、こうせいぶっしつやさいきんも調べている。雪印事件 について経済連の人は「ひじょうにめいわくしている。でも、それ対して、どこからももんくは来ていないから安心している」と話してくれた。 ※写真は雪印問題について考えを述べてくれた倉内地区酪農農協の蝦名敏則組合長
1日の出動20回、搬送15分以内に
【八戸市白山台小五年・野澤汐織】 八戸消防署の救急車は毎日、病人やけが人のためにがんばっている。一日平均二○・一回も出動している、という。昨年度の出動回数は七千三百二十六回だった。一日平均二○・一回、一時間十一分に一回の割合で出動している。一一九番の受付は一年間一万三千四百一件だったが、このうち五十四件は、まちがいといたずらだった。 出動が多い月は、暑いときや寒いときなど、季節のかわりめ、という。同署には十六台の救急車があり、このうち高企画救急車が三台、予備車が二台となっている。 隊員は二十四時間交代勤務で、万一の場合にそなえている。病人やけが人を運ぶ先は、市民病院、日赤病院、労災病院の大きい病院で、当番を決めている。運ぶ時間は、病院まで十−十五分をめどにしている、という。 ※写真は八戸消防署内の通信指令室で119番通報を受けている署員 ◇ 高規格車を配備、多くの機械積む
【八戸市白山台小五年・松倉梨里子】人の命を救うために、二十四時間いつでも出動できる救急車。その中では、命を守るためにどんな工夫がされているのか、八戸消防署の嶋津さんと河原さんに話を聞いた。同署には、二台の救急車がある。そのうち一台は高規格救急車で、車高が高く、立ったままでもしょ置ができるようになっており、ボタン一つで車体が低くなって、たんかの上げ下げがスムーズにできる。 今と昔の救急車のちがいについて嶋津さんは「昔は、具合の悪い人をベットにねかせ、毛布などをかけて病院へ運ぶだけだったが、今はみゃくはくを計る機械などを乗せてしょ置をして、病院の先生に報告する」と説明してくれた。 昔と比べると、いろいろな機械が救急車に取り付けられている。河原さんは「救急車の中には、血圧やみゃくはくを計る機械、人工こきゅう器、のどにつまった物を取り出すはさみ、口の中の様子を見るもの、酸素ボンベ、ちょうしん器、心電図、体温計−この九つの道具のほかに、救急救命士の資格を持つ人だけが取りあつかうことができる空気を入れる管、点てき、電気ショック−の三つの道具がある」と話す。河原さんは「病人をできるだけ早く病院へ運ぶことを心がけているのに、救急車を病院へのタクシーがわりにつかう人がいる」と残念そうに話していた。 ※写真は高規格救急車の内部と救急救命士の河原さん
【大畑町正津川小六年・松井亜矢子】 男の子の好きなスポーツ・野球を、下北地方では何人かの女の子もやっているというので、その中の一人、東通村白糠小六年の伊勢田万里さんを取材してみた。伊勢田さんの通う学校は、むつ市から車で約四十分、太平洋を見下ろす高台にある。児童数七十人の小さな学校である。 校庭がせまいから、外野フライや外野へのゴロを野手がエラーすると、校庭の外の道路にボールが出てしまう。フライを上げそこねると、校舎の屋根。長打を打つと近くの家の屋根を一げきする。そんなせまい校庭で練習をしながら、伊勢田さんは昨年、全国学童野球大会に、同小チーム・白糠ジュニアスターズの一員として参加した。 伊勢田さんは、同チームの選手が足りないため、頼まれて入団した。現在、選手数は十四人だ。 伊勢田さんは「好きな練習はフリーバッティング、つらい練習はランニング。中学校に進学しても野球を続けたい」と話している。しかし、中学校の部活では、野球部には女の子は入れない。また、女子ソフトボール部がある中学校は、むつ市・下北郡内で三校だけである。 同チームの沢頭かんとくは「スポーツ少年団のみりょくは、学年のちがう子供たちが野球に集中できること。そういう意味から、女の子が男の子にまじって野球をやることはすごく良いことだ。伊勢田さんは、苦しさを乗りこえ、前へ進んでがんばってほしい」と話している。 ※写真は白糠ジュニアスターズの伊勢田万里さん
【弘前市小沢小六年・古山和憲】 第三十五回全日本少年剣道錬成大会が七月二十六、二十七日、東京の日本武道館で開かれ、全国から選ばれた八百八十五チームが、日ごろのけい古の成果をはっきした。ぼくが入っている護国館(弘前市)チームは十年ぶりの出場。ドキドキしながらのぞんだ大会のもようを報告する。開会式では何千人という剣士が一同に集まり「開会の辞」というアナウンスとともに場内がいっせいにライトアップされ「オッ!」とどよめきが上がった。 あいさつの中で橋本龍太郎元首相が「私は戦争のえいきょうもあり、大学時代から剣道を始めました。剣道は今でも下手ですが、好きな気持ちは君たちと同じです。この大会で何かを得てふるさとへ帰ることを期待します」と述べた。 次に基本錬成。号令に合わせいっせいに竹刀をふる様子は、「まるで風になびく稲ほのようだった」と客席から見ていた母が話していた。元気がない、と言われ、剣士たちは気合を入れるように声をふりしぼった。 ぼくのチームはシードされていたので試合は午後一時ごろ。試合の前に館長の外崎勝彦先生が面をつけ最後のけい古をつけてくれた。相手は京都の宇治向陵剣道教室だ。ロビーではそれぞれのチームが練習していて、ビシビシ気合が入っているように思えた。 ぼくは練習中に足のつめがはがれるアクシデントがあった。メンバーの一人は、あまりのきんちょうのため胃痛をおこした。 十六コートで、いよいよぼくたちの試合がはじまった。先ぽうのぼくは、おもったほどきんちょうしておらず、面を二本とりまず一勝。次ほうも一本とり、この調子では勝てるのでは、と思った。 しかしその後、次ほうは二本とられてやぶれ、結局試合は一対四の負け。チーム全員が泣いた。実力はほとんど差がないため、心で負けたと思った。とても貴重な体験だった。次のチャンスをねらうため、けい古にはげみたい。 その後、八月六日に開かれた東奥日報社主催の北奥羽少年剣道大会で、ぼくたちのチームは三位となった。全国大会しょせん敗退は、むだではなかった。 ※写真は古山和憲選手(左)の合い面が決まった瞬間 ![]() (飯田勇気・平内町浅所小5年) |