| 2000年1月31日(月) | ![]() | 第2号 |
【青森市幸畑小五年・三浦雄大】 青森市幸畑団地に接する所で見つけた土器のかけらを専門家に見てもらったら、三千年−四千五百年前のものだった。専門家は「じょう文人は、いい所にずっとすみつづける」と話している。幸畑団地は、じょう文人の団地でもあったようだ。ぼくは、ほいくえんのころから幸畑団地南側の小さな河原で見つけた土器のかけらがとても気に入り、今まで約百個ひろい集めてきた。年代が知りたくなり、青森市の田中忠三郎さんをたずねて聞いてみた。 田中さんは「約四千五百年前のものと約三千年前のものがある」と言った。四千五百年前というと、三内丸山いせきと同じぐらいの年代の、じょう文土器という。なぜ年代がはなれた土器が同じ所にあるのかというと、田中さんは「じょう文人は一度いいときめた所にずっとすみつづけるから」と教えてくれた。じょう文人は、この団地にすくなくても千五百年はすみつづけたのだろうか。 このほか土器についてさまざまなことを聞いた。
【蓬田村蓬田小六年・藤本結子】 蓬田村の新鮮な農水産物をていきょうする「蓬田物産館マルシェよもぎた」が昨年七月一日、同村国道280号沿いの玉松海水浴場にできた。夏はとてもにぎわい人気がある。村では「いろいろくふうして、冬でもおおぜいの人たちがおとずれるようにし、もっともっと蓬田でできたものを多くの人たちに食べてもらいたい」とはりきっている。「マルシェ」とは、フランス語で新鮮な野菜や果物を扱う市場、という意味だ。 村長の古川正隆さんは、なぜマルシェよもぎたを建てたかについて「玉松海水浴場に来た人たちに喜んでもらうため。また、農家の人たちの副収入を上げるためもあったが、一番の理由は、おいしくて安全な蓬田村のコメ、野菜、魚介類を村外の人たちに売る所がなかったので、村外の人たちにもぜひ食べてもらおう、と建てた」と説明する。 よく売れるものについて、マルシェよもぎた支配人の村上新吉さんは「夏は村外の人が多く、桃太郎トマト、コメのおかわりちゃんなど村特産品が人気。冬はお正月に使う花やもちなどがよく売れている」と言う。またお客さんの動きについては「夏は観光バスがたくさん通るので、トイレのついでに立ち寄ってくれる人が多い。水泳客もいるので夏はにぎわった。しかし、冬は夏の三分の一に減った。道が悪く、夏のように観光バスが通らないからだ」とのことだった。 これから、どのように経営していくのか、と村上さんに聞いたら「加工品にもっと力をいれてお客さんがもっと来るようにしたい。冬場は、婦人部が蓬田でとれる新鮮な魚でつくる『蓬ずし』の売り込みに特に力を入れていきたい。日曜日などには、ホタテの直売や魚介類などを売る朝市のようなものを開きたい」といろいろなアイデアを教えてくれた。取材したときおとずれていたお客さんたちに、マルシェよもぎたの感想を聞いてみた。「利用しやすい」という声が多かったが、「きれいだが、物が少ないのですこしさみしい」という意見がとても多かった。物が少ないことについて村長は「昨年始めたばかりなので、品物を出す方もまだ、とまどっているのかもしれない」と話している。 マルシェよもぎたの今後について村長は「農家の人たちみんなで手分けして、さまざまな良い商品を出し、サービスも良くしてたくさんの人に来てもらいたい」とはりきっている。 マルシェよもぎたの営業時間は、四−十月が午前七時から午後六時まで、十一月−三月は午前八時から午後四時まで。定休日は毎週火曜日 ※写真は人気がある蓬田物産館「マルシェよもぎた」
【新郷村川代小六年・長根香奈】 年の瀬も近付いた十二月、新郷村の荒巻地区で、一年の願いを込める正月用の「かどまつ」作りが行われた。かどまつ作りを行ったのは、FAV(荒巻フレンドボランティア)クラブの会員十五人。毎日仕事を終えた後の午後七時から十時まで三時間、作業を続けた。 作業の内容などについて、同クラブの長根武志さんらに聞いた。 −かどまつ作りはいつから始め、製作時間はどのくらいか。 「十一月末に始め、約一カ月かかる」 −何組作るのか。 「四十組製作している」 −男性会員と女性会員の仕事の分担は。 「男性は竹切りと縄巻き、できたかどまつの配達。女性は飾り付けを担当している」 −かどまつはどこに配るのか。 「地区内のすべての家庭に無料で配っている。そのほか、老人ふくしセンターや郵便局も対象にしている」 このほかにも、長根さんらは、かどまつについて興味深い話をしてくれた。まとめるとこうなる。 かどまつの土台には上から三本、五本、七本の順で縄が巻かれ、それぞれに特別な意味と願いが込められている。一番上の三本は、太陽と降り注ぐ光の様子。真ん中の五本は地上の豊作、下の七本は海の波と恵みを表しているという。 垂直に立つ三本の竹は「笑い竹」と呼ぶそうだ。三角形をしたななめの切り口が、笑っている口のように見えるからだそうだ。これには、一年間ずっと笑ってすごせるように−という願いも込められている。 このように、縁起物のかどまつにはたくさんの思いが込められている。私の家でも、心を込めて作られたかどまつを飾り、今年は楽しい正月を迎えることができた。 ※写真はできあがったかどまつに、せんすの飾りをつけるFAVクの会員
【青森市幸畑小五年・中村拓磨】 青森市幸畑の松元台町会で一月九日、もちつき大会が開かれた。晴天にめぐまれたこの日は、外でまきストーブを使ってもちごめをむし、きね、うすを使った昔ながらの方法でもちをついた。 今年で八回目になるこの大会を企画している子ども会育成者代表の阿部さんは「本来のもちつきを体験してもらいたくて企画した」と話す。もちつき大会は、子ども会やお母さん、青年部の協力のもとに行われた。子どもたちは、ぞうに、きなこなど思い思いの食べ方で、おいしそうにほおばっていた。 ※写真は、教わりながら、きねを振るう子どもたち
【青森市後潟小六年・矢野慎】 青森市浪打の沼田宗繁先生方で一月九日、お弟子さんたちが出席してお茶(江戸千家流)の初釜(はつがま)が行われた。のし俵、書の掛け軸、青竹に生けられたヤナギや赤白のツバキ−などはなやかなかざりの中、初釜は午前十一時から始まった。台炭をし、点心をいただく。島台という茶わんで大福茶をいただき、お薄−と進められ、午後四時に終了した。 初釜が終わってから、沼田先生は取材に対し「お茶は子供のころからやっていたが、本格的にやったのは結婚しておちついてきてからで、四十年ぐらいになる。一期一会の精神を知ってもらうため、もっとたくさんの人たちにお茶を知ってもらいたい。男の人も子供たちも茶道を勉強してほしい」と話してくれた。 ※写真は、すこしきんちょうした感じの初釜のお点前
【むつ市苫生小五年・高井彩乃】 第25回元旦走ろう会が、むつ市田名部神社をスタート地点に行われた。家でごろごろしがちな元旦に運動し、1年の安全と健康を祈願、さらにスポーツを通じて明るく健康にすごすことが目的だ。きょりは3キロ。今年の参加者は子どもからお年よりまで約70人。大橋大会長は「今まではコースが雪だったり天候が悪かったりしたが、今年は雪が少なく、よい年を迎えられた。来年はもっと大勢の人が集まることを願っている」と語った。スタッフは、朝早くからコースに線をひいたり、交通整理や甘酒づくり―と大会をささえていた。 参加者は「2000年の初日の出を見ながら走れて感動した」「来年元旦、21世紀の幕開けもぜひ走りたい」「寒かったが、思ったより速く走れた」などと話していた。 ※写真は一斉にスタートする「元旦走ろう会」の参加者たち
【森田村育成小五年・盛みなみ】 「岩木山まだ雪とけぬ 裾はりんごの花ざかり」−。一月十日、森田村中央公民館で、東奥日報社発行の郷土カルタを使った「森田村こども会対抗カルタ大会」が開かれた。大会は一九六九年に始まり今回が三十一回目。村こども会育成連合会が、郷土に対する理解と愛情を深め、規律正しく活力のある青少年を育てよう、と開いている。今回は約百人が参加、優勝は床舞一Aチーム。以下、二位下相野A、三位床舞二A、四位下相野Bだった。主催者は「大人になってもカルタを忘れないでほしい。こどもたちみんなにカルタを知ってほしい」と話していた。 弘前市に住む小山吉三郎さんによると、この郷土カルタをつくったのは東奥日報社で、終戦間もなくのころだった。「冬の間、室内の健全な遊びとしてカルタを通して県内のいろいろなことを学んでほしい」という願いで編集・発行した。 そのころは、世の中がまだ混乱しており物資が不足していたため、そまつな紙質のカルタだったが、こどもたちには何より楽しい遊びの一つで、第一回の西郡大会は鰺ケ沢町で開かれ小中学生百六十人が参加したという。 カルタには歌が一首書かれてあり、歌をつくったのは日本カルタ協会の杉村顕道さん。カルタの取り方は、小倉百人一首のルールに準じている。現在、郷土カルタを使ったカルタ大会が開かれているのは、森田村だけだ、といわれている。大会参加者たちは「カルタは楽しいよ。来年もがんばるぞ」と話していた。 ※写真は熱戦がくりひろげられた郷土カルタ大会
【六戸町六戸小五年・山田貴恵】 六戸町上吉田地区公民館で1月10日、伝統芸能の一つである南部駒舞の練習が行われた。この日が今年の「けいこ初め」ということで、小・中学生を中心に父兄などが集まり、子供とともにもちつきをしながら、練習に汗を流した。上吉田南部駒舞には他の地区にない特徴があるという。そこで、上吉田南部駒舞保存会長の山内さんと、ただ1人の笛奏者の高橋さんに話を聞いた。 約400年の歴史があるという南部駒舞は、武田信玄の子孫が軍馬のはんしょくのために野馬制をせ行したことから荒馬になった馬を、選ばれた騎士たちが美しく着かざって追い集めた様を巧みに舞とう化したものが起源だという。華美な陣羽織をまとい、家紋には武田家の紋を用いている。 そして一連の舞とうを勇壮に舞い通す。休むことなく舞うことから「踊」ではなく「舞」という文字を使っているのも特徴である。二人はこう続ける。「いいものだからずっと残しておきたい」。 駒舞は長い歴史の中で一度はとだえたらしい。復活したものの、駒舞の未来に不安はかくせない。しかし、友人の「足とか肩が疲れるけれど、とても楽しい」という言葉の中に、保存会の人たち、そして昔の人たちの気持ちが伝わっているのだと安心した。現在、地区住民や町などの協力もあり、県内各地でも同様に伝統芸能が伝えられている。 ※写真は、南部駒舞の練習
【七戸町西野小六年・川村佳代】 七戸町の上川目神楽保存会は一月三日、ししまいによる「門うち」と神楽舞を踊った。門うちに参加したのは保存会の大人十一人で、神楽舞には小学生十三人が加わり生活改善センターでひろうした。この神楽舞は、番楽をはじめ八つの舞があり、新年の舞い初めに向け、昨年十二月から練習してきた。ひろう当日は、約三十人の観客を前に堂々発表し、大きな拍手を受けた。観客は「良かった。前よりうまくなった」とほめていた。 神楽保存会は現在、大人十五人、子供十三人で活動しているが、これまで活発に発表してきたため関心が高まり小学生と大人あわせて約十人の会員が増えた。 保存会会長の山谷栄助さんは「若い人たちが関心をもって入ってくることは、とても大切なことだ」と話し、新しく入会した人たちは「曲に合わせておどるのがとても楽しい」と張り切っている。育成会会長の川村俊男さんは「昨年の文化観光立県式典での発表を土台に、今後、全国大会への出場や、東京ドームでの発表を目標にして、みんなにアピールしていきたい」と抱負を語っていた。 ※写真は神楽舞の番楽を踊る小学生たち
【平内町内童子小五年・蝦名雄三】 平内町の内童子地区に、伝統芸能の獅子舞がある。しかし今では、おどる若い人が少なくなってきたので、後けい者として内童子小学校の児童たちは四年前から、獅子舞の練習をつづけている。獅子舞保存会会長の蝦名昭夫さんによると、内童子地区で獅子舞がはじまったのは百七十年前、黒石藩の人が内童子に教えたのが最初、という。 おどる目的は、豊作をいのったり、やくばらいのため。今では、おいわいごとでもおどるときがある。 戦時中は、おどりてがいなくなり、獅子舞ができなくなったが、昭和二十三年ごろ、青年団の有志によって復活した。長く伝統を守っていくため十年前、保存会をつくった、という。 ※写真は獅子舞をおどる内童子小学校の児童たち
【七戸町城南小六年・伊藤希】 城南小の伝統行事の一つに「城南太鼓」がある。当初は、部活動としてスタートしたが、今では四年生以上の児童全員が参加する一大イベントに成長している。城南太鼓は昭和五十六年、同小の創立二十周年を記念して誕生。作曲はマリンバ奏者として知られる新谷祥子さんで、四季を表現した四部構成となっている。中でも、「秋」のパートは七戸町民ならだれでも知っている「七戸秋祭り」のおはやしをアレンジしているのが特徴だ。 城南太鼓は町のいろいろなイベントで披露される。聴いた人たちの感想は「太鼓の音を聴くと、こっちまで元気が出るよう。もっと演奏の機会を増やしてほしい」というものが多く、城南太鼓への期待はますます大きくなっている。 七戸町ではぐくまれた伝統ある元気な演奏をこれからもどんどん聴かせてほしい。 ※写真は、運動会で披露された城南太鼓
木造町では九月初めに、馬市まつりが開かれる。父の馬ねぷたは毎年、まつりを盛り上げるパレードに参加、勇壮な姿を町民に披露する。そして、パレードでの役目を終えると、静かに燃やされる。夏の間、仕事を終えた父が汗まみれになって作った馬ねぷた。馬ねぷたが燃え尽きるまで、父はじっと見つめている。その姿は少しさびしそうだ。 かつて、馬市まつりは「馬市」(まいぢ)と呼ばれていたそうだ。父の話によると、小学生のころ、同町の松原町には露店がずっと続き、耕うん機などの農機具が売られていた。しかし、もうそのころには、馬が市に並ぶことはなかったという。もともと、馬市はその名の通り、馬のせり市だった。明治時代、津軽一帯の農家が集まり、農耕馬の売り買いをする場所が松原町だった。最盛期の昭和初めには、数百頭単位で取引され、馬小屋も二百軒ほど立っていたという。
町観光協会の資料によると、馬市は東北三大馬市に数えられるほどで、遠くは北海道、岩手、秋田、山形県からも、馬の取引業者である馬喰(ばくろう)たちが押し寄せたという。町地域振興課の伊藤禎悦総括主査と松原町の歴史に詳しい三浦克己さんの話をまとめると、当時は娯楽が少ないため、年一回の馬市が木造地方で最大の行事であり、町民が楽しみにしていた。馬市の日には、松原町一帯は約五万人もの人であふれ返り、広場にはサーカス小屋や見せ物小屋が立ち並んだ。 そんなに華やかだった馬市が「農機具市」に姿を変えたのは、昭和三十年以降。農業の機械化に伴うもので、農耕馬の減少によって、「牛市」となり、同五十年から「馬ねぷたパレード」「新田火まつり」へと衣替えした−という。 現在、馬ねぷたを燃やすのは新田火まつりの最終日。木造地方の三新田(さんしんでん)の開拓に尽くした馬を慰める儀式となっている。木造中校庭に一列に並べられ、一斉に燃やされる馬ねぷた。この時、火の粉とともに、木造町をつくり上げる原動力となった馬の命が昇天していくのだ。 これからの二〇〇〇年代、私たちが馬市まつりをさらに盛り上げ文化遺産として大切に残していきたい。 ※写真は馬への感謝を込め、燃やされる馬ねぷた
【むつ市第一田名部小六年・深沢達也】 むつ市柳町の佐々木*(たけし)さん(66)は、今は少ない桶(おけ)作りの職人。その道を究めた達人の姿を取材した。佐々木さん方の玄関を入ると、二百個ぐらいの桶が所狭しと並んでいる。多過ぎて、階段にまで置くほど。そして、作業場には木材ときれいに磨かれた道具がずらり。壮観な光景だ。 現在、佐々木さんが作っているのは実用品ではなく、飾りとして使うもの。「趣味で作っている」と佐々木さんは笑う一方、「作り手が少ないので、後世に残すため」とも言い切る。 佐々木さんが桶作りの道に入ったのは五十年前。二代目に当たり、「桶を作っている時が一番楽しく、疲れも取れる」と語る。桶の需要が減ってきた六年前から、技術を伝えることを目的に、非売品のさまざまな桶細工を作り始めた。 このため、佐々木さん方には、桶のほかにもいすや遊び道具、コップ形のもの、花を生ける容器、酒たる…とさまざまな形の作品が顔をのぞかせる。しかし、何と言っても、目立つのは大型の桶。「火の用心」と書かれたものは勇壮だ。 ふだんの生活で見られない珍しい物が佐々木さんの桶作り技術を通して、現代によみがえっている。 佐々木さんの夢は「桶の資料室」をつくること。そのため、毎晩八時まで、休みの日にもひまを見つけてはトン、トンと桶作りに励んでいる。「桶の技術を生かして、自分で作ったコップで酒を飲むことが無上の喜びと」と話す佐々木さんだ。 実は、この佐々木さんこそがぼくの祖父だ。 (注)佐々木さんの名前の*は「甬」の下に「心」。 ※写真は自分の酒たるを手にする佐々木さん
【青森市合浦小五年・熊谷美夢】 青森県立梵珠少年自然の家は一月九日から十二日まで「アウトドアライフ二〇〇〇」を行った。この企画は自然の家という普段とは違ったかんきょうにねとまりし、たくさんのレクレーションを楽しむというもので、県内各地の小学五年生から中学一年生までの三十人が参加した。所長の佐藤良治さんに話を聞くと「アウトドアライフ」は九八年から夏、冬かいさいされていて、今回は冬の楽しみやきびしさを子どもたちに伝えるために企画したものだという。その名の通り、犬ぞり体験やペットボトルロケット大会、もちつきなど、たくさんの体験が用意されていた。 中でも特に印象的だったのは山登りである。登りはあめを食べながら進んだにもかかわらず、上に行くほどに寒さと疲れがじわじわたまってきて、思った以上につらかった。下りはその逆で、みんなですべりながら下っていったので、予想外に楽しかった。 所長は二〇〇〇年代の子どもたちへのメッセージとして「夢や自信をもって活動してほしい」と語っていた。最終日は、参加者みんなが満足な笑顔をうかべていた。梵珠での思い出は、帰りの荷物よりも重いものになったことだろう。 ※写真は、犬ぞり体験の様子
【青森市浦町小五年・梨子日菜子】 青森市中央三丁目に巨大な赤と白の鉄塔がお目見え、空に向かって伸びている。NTTドコモによると、この鉄塔は、県内各地からかけた携帯電話からの音声やメールを方面別にふり分け、次のアンテナへ送る役目をする。重さ八百七十五トン、高さがビルと合わせ百八メートルにもなる。県内にある百十八本のドコモのアンテナの中でも群をぬく高さで、県民すべてが携帯電話を持っても、ちゃんとつながるようになる。ちなみにアンテナの数は東北で約八百五十本、全国だと一万本をこえる。 青森市の新しい目印になりつつあるこの鉄塔は、今年の五月末ごろ完成する。NTTドコモは「ドコモの携帯電話はW−CDMAという携帯テレビ電話を二年後に発売することを考えている。この携帯テレビ電話でくらしが大きく変わるでしょう」と教えてくれた。 ※写真は工事が進む青森市中央3丁目のNTTドコモの鉄塔
【三沢市岡三沢小六年・松橋沙知】 三沢市の斗南藩記念観光村の先人記念館で昨年十月から今年二月まで、企画展「米軍基地の遺跡」が開かれている。郷土の歴史を探り紹介することを目的にしているもので、米軍基地の遺跡、小山田遺跡、小田内沼遺跡から発掘された土器、石器、炭化米などが数多く展示され、市民が見学におとずれている。 先人記念館は、日本初の民間洋式牧場を開設した広沢安任の功績を顕彰するとともに、当時の資料を保存・展示するため平成七年に建設された。一階はエントランスギャラリーや常設展示室、二階は観光村西側と八甲田が見わたせる観光ギャラリーとなっている。企画展は年に三回ぐらい開かれている。 ※写真は三沢市の先人記念館に展示されている土器類
【七戸町城南小六年・三浦妃美子】 七戸町の城南小学校に平成十一年四月、町の小学校で初めての吹奏楽部ができた。相馬康博先生の指導のもと、数々のイベントや行事に参加している。部員は全部で二十八人。息のあった演奏をしている。また、十二月九日のアンサンブルコンテストでは初挑戦で五位、九位、十位という成績をおさめた。吹奏楽部ができたときと今の心境を相馬先生は「まさか転任してからも吹奏楽がやれるとは思っていなかったので、とてもラッキーだった。物(楽器など)がなくて大変な思いもしたが、部員のみんなが一生けん命とり組んでくれるので、はげみになる。一年足らずで本当にうまくなったと思う」と語っていた。部員は二月六日に開く初の定期演奏会・森のコンサートに向けて練習にはげんでいる。これからの城南小学校吹奏楽部に期待がかかる。 ※写真は、七戸病院のクリスマスパーティーで力いっぱい演奏する城南小学校吹奏楽部
【八戸市白銀小六年・清水舞子】 白銀小は平成十一年十月二十七日、創立三十周年式典をおこなった。総合的な学習もはじまり、各クラスごとにいろいろなことを調べている。私のクラスは昔の学校の様子、部活動の様子、人数やクラスの数など白銀小の歴史について調べてみた。さらにくわしく調べるため、県議会議員で地域の人でもある高橋長次郎さんから創立当時についてインタビューした。高橋さんによると、「白銀」の名前は白銀の強いカモメのように、たくましく育ってほしいとの願いからついた。当時の校舎は元白銀中学校。トイレも中学生用で、げたをはいてトイレを使用するなど子供たちはとても不便な思いをした。 昭和三十七年に火事で体育館が焼けたため、新しい体育館を建てた。校歌は全国的にも有名な石森延男先生に高橋さんがお願いにいき、石森先生は一週間くらい白銀を調べて白銀小のイメージにあう校歌をつくった。校歌は白銀の宝物だったという。 このほか高橋さんは、当時の小学生たちが不便さをのりこえてがんばっていたこと、四月から十一月まで行われた日本一周校庭マラソンも創立当時からの伝統であることなどを話してくれた。 ※写真は白鴎小の歴史について話す高橋長次郎さん
【七戸町野々上小六年・浦田香里】
七戸町の野々上小学校は明治十七年に開校し、新年度に百二十周年を迎える。その記念式の準備が進められているがこの機会にかつて野々上小の分校だった寺下分校が今どうなっているのか知りたくなりたずねた。校舎は古くなっていたがまだたっていた。寺下分校は野々上小から約四キロはなれた寺下地区にある。大正十三年に分校ができた。だが、寺下地区から通学する数より、野々上小の近くから通学する児童の方が多くなり、歩いて通うのが大変になったため昭和五十二年、廃校になり野々上小と一緒になった。分校が廃校になっても寺下地区にまだ児童が三人いたためその児童はタクシーで野々上小に通ったという。 寺下地区は静かな山奥にあり、昔からの家は十戸ほどあるが、いまは人が住んでいる家は夏は二戸(二家族四人)、冬は一戸(一家族二人)だけだ。ほかの人たちは野々上小の近くにうつり住んでいる。寺下分校の校舎だった建物は、まだひっそりとたっていた。むかしの写真にあるような木でできた小さな建物だった。野々上小も廃校になるかもしれない、という話が出ている。児童の数がもうすこしふえて廃校になってほしくない、と寺下分校だった建物を見ながら思った。 ※写真は、まだ元気にたっている寺下分校だった建物
【八戸市白銀小五年・清水一華】 八戸市新井田にある対泉院は、現在の本堂が完成するまで、四人の住職と一人の宮大工の物語があった。古代ハスでも有名な対泉院をたずねた。明治四十年旧三月十八日、住宅が火事になりその火が対泉院に燃え移り全焼した。火元は後ろの宮大工中村松太郎の実家だった。対泉院は地域の人々の心のよりどころになっていたため、松太郎少年と両親はつらい思いをしたようだ。その後、松太郎少年は宮大工になって対泉院の再建を決意、修業へと旅立った。 再建の話が持ち上がったため、祖堂住職は松太郎に建築のお願いの手紙を送ったが、間もなく住職が急死、再建の話は立ち消えとなる。次の領月住職の時代にも再建話が持ち上がり、松太郎を八戸に呼び寄せたが、ききんに見舞われ、再び再建の話は消える。 その次の恵範住職のときには建設実行委員会まで組織され、松太郎にまた声がかかる。だが、時代は戦争に向かい、松太郎も兵にとられ、またまた再建話はないものとなった。 戦後、恵範住職から再建をたくされた頼石住職は、松太郎を呼び寄せ、建設を始めた。資金は、だん家をはじめ地域住民の寄付を募ったが、必要な額の半分にも満たず、地域以外の人々の寄付や頼石住職の講演料などでまかなった。 現住職(頼石住職の子息)は「頼石住職が寄付集めのため階上に歩いて出かけ、その帰り道、かまなどを手にした三人組のどろぼうにおそわれ、必死に逃げ、やぶの中にかくれて九死に一生を得た」とエピソードを教えてくれた。 昭和二十五年仮らっけい式、同三十八年本らっけい式。すべて完成したのは昭和五十四年だった。対泉院が完成したとき、現代の名工になっていた中村松太郎は、八十歳を超えていた。 ※写真は対泉院本堂。ケヤキの丸柱が30本以上使われ、今は1本1千万円するという |