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文化活動に業績のあった作家や研究者(団体)らに贈られる第四回司馬遼太郎賞(主催・司馬遼太郎記念財団)の発表が十八日、東京のホテルオークラであり、学芸部門は県教委三内丸山遺跡対策室の岡田康博主幹を中心とする三内丸山遺跡発掘調査チームに決まった。賞金は三百万円。贈呈式は二月十二日に大阪市のサンケイホールで開かれる「菜の花忌」で行われる。 受賞理由は「縄文時代を代表する遺跡の発掘調査を通じて、日本の古代観を塗り替えた功績」で、県民をはじめとする民間や、考古・植物・民族学など幅広い分野の研究者たちに支えられたことが評価された。 発表会見には、発掘調査チームを代表して岡田主幹が出席。「縄文人の日々の生活や世界観を知りたいと思って発掘を続けてきた。そのために最新の研究方法や機材を導入し、より早く情報発信するように努めた。それが評価されたのだと思う。本当に光栄だ。」と喜びの言葉を述べた。 また、文芸部門は「二葉亭四迷の明治四十一年」など、評論を超えるざん新な創作活動で作家の関川夏央氏が受賞した。同賞の選考には、作家の陳瞬臣、井上ひさし、日本文学研究家のドナルド・キーン、評論家の柳田邦男、筑波大名誉教授の青木彰の五氏が当たった。
県教委は九、十の二日間、大阪府吹田市の国立民族学博物館講堂で、全国キャラバンの第一弾となる「三内丸山遺跡・縄文シンポジウム2000in大阪」を開く。民族学からみた三内丸山がテーマで、縄文の衣・食についてパネルディスカッションなどを行う。 県教委は毎年、県内と東京の二カ所でシンポジウムを開いてきたが、三内丸山の情報をさらに広く発信しようと全国キャラバンを企画。大阪を皮切りに、来年以降も全国の大都市で縄文シンポを開く。 一回目の今年は国立民族学博物館との共催で、一日目は「縄文経済学」と題して同館の小山修三教授、県教委三内丸山遺跡対策室の岡田康博主幹らがトーク。交流、交易から見えてくる縄文社会の実態に迫る。 二日目は日本服飾史学会長を務める薫英女子短大の松本敏子教授が、八種類の縄文服を復元。モデルに着せて“縄文ファッションショー”を行い、その特徴や背景にある精神世界などを探る。 続いて、「縄文の饗(きょう)宴」をテーマに、食文化研究の第一人者である石毛直道・同館館長と小山教授、岡田主幹らが縄文社会の中での食の意味について話し合う。 シンポの参加は無料だが、入館料が必要。問い合わせは同対策室(電話017-734-9924)へ。
三内丸山は大規模拠点集落をさらに統括した“クニ”ともいうべき文化圏の中心地で、代々の首長が環状配石墓に葬られた−。「遺跡が語る縄文社会」をテーマにした「三内丸山遺跡・縄文シンポジウム2000」(県、県教委主催)が十九日、東京・有楽町朝日ホールで開かれ、三内丸山の成り立ちとそれに伴う階層社会の発生について、文化庁の岡村道雄主任文化財調査官(考古学)が興味深い仮説を披露した。 シンポには全国から詰め掛けた約六百人の考古ファンが参加。県教委三内丸山遺跡対策室の岡田康博主幹を進行役に、三内丸山の調査指導に当たる岡村主任調査官と国立民族学博物館の小山修三教授(民族考古学)がパネルディスカッションした。 岡村主任調査官は「大規模拠点集落が地域の中で形成されるのは縄文中期後半(約五千五百年−五千年前)」とした上で、「同時期の青森では小川原湖近くに二ツ森貝塚(天間林村)、太平洋側に富ノ沢(六ケ所村)、西に石神(森田村)という大規模拠点集落が生まれ、それをさらに統括したのが三内丸山。三内丸山は南北海道から北東北にかけて広がったクニともいうべき文化圏の中心地だった可能性が高い」と述べた。 さらに、こうした大中心地を束ねた首長を葬ったのが平成十年から十一年にかけて出土した環状配石墓−と指摘。「現世(の地位)をそのまま映すのが墓。環状配石墓は代々の首長のもので、ムラびとを見下ろすような斜面に意図的に造られている。環状配石墓は縄文社会の階層性を顕著に表すものだ」と語った。 また、岡田主幹は三内丸山の巨大化が交易・交流という経済活動に伴うことに言及。「黒曜石(北海道、長野産)やヒスイ(新潟産)などの交易品が他の土地から大量に入ってくる時に、集落内で道路などが盛んに整備される。交易品には鉱物のほか、魚などの食料品が含まれていたことが考えられる」とした。
県教委と東奥日報社などは十一月二十七日、青森市のホテル青森で、「三内丸山遺跡縄文フォーラム2000」を開く。三内丸山の九年間にわたる発掘調査を振り返るとともに、二十一世紀の縄文考古学を見据えた記念イベントで、「いま、縄文がおもしろい」を基本テーマに、記念講演やトークセッションを繰り広げる。 同フォーラム実行委員会(会長・佐々木高雄東奥日報社社長)が二十七日、同市の東奥日報社本社で開かれ、開催案を承認した。それによると、フォーラムは二部構成で、第一部では「三内丸山は世界四大文明に匹敵する“縄文文明”」と指摘する評論家の森本哲郎氏が「自然・人・文化」と題して講演。三内丸山びとが自然と調和しながら築き上げた豊かな文化とその人類史的な意義を探る。 第二部では、「考古学の伝導師」を自認する国立民族学博物館の小山修三教授(民族考古学)を司会役に、歴史に造けいが深いタレントの高田万由子さんと文化庁の岡村道雄主任文化財調査官(考古学)がトークセッション。全国の最新の発掘成果を盛り込みながら、縄文人の衣、食、住についてざっくばらんに話し合う。 また、パソコンのディスプレーを会場内の大スクリーンに投影し、三人の顔の「縄文度」を調べるなど、趣向を凝らしている。 第一部と第二部の合間には、県教委三内丸山遺跡対策室の岡田康博主幹が数々の発見や新説を生み出した三内丸山の発掘の歩みについて説明する。 同対策室の秦光次郎主事が本年度の調査結果を報告する。 同フォーラムは午後六時開会。入場は無料。 ただし、整理券が必要で、応募方法は近く社告で掲載する。
県教委の三内丸山遺跡発掘調査委員会(委員長・村越潔青森大学考古学研究所長)は十九日、青森市の同遺跡体験学習館で本年度の第二回会議を開き、これまでの発掘調査の結果を検討した。 委員五人は本年度調査区である第十七−十九次区を視察し、発掘担当者から説明を受けた。遺跡北西側の第十九次区では、八−九年度の調査で見つかり、現在取り出し作業を進めているクリの木柱が六本柱の一部である可能性が高いと報告された。鈴木三男東北大教授は「木柱を切断して成長の度合いを見ることで、クリが栽培によるものなのか自然林から伐採したものなのかが分かるのでは」と指摘した。 また、遺跡西側の第十七次区で見つかった日時計型の配右遺構が土坑墓を伴わない配石だけの施設だと説明を受けると、「どのような役割を持つ施設か検討が必要」「石の置き方に意味があるのでは」などの意見が出ていた。
県教育庁三内丸山遺跡対策室は十四日、本年度の同遺跡の発掘調査の成果を一般県民に報告する現地説明会を開催。詰め掛けた考古ファンら約百五十人が、掘り下げられた遺物を見ながら縄文びとの生活の息吹を感じていた。 本年度は展示室南側の十七次調査区、そのさらに一段高い地点にある十八次調査区、遺跡北西側の低地にある十九次調査区の三エリアを発掘している。 十七次調査区では、三内丸山の集落が最も繁栄した縄文中期中葉から後葉(約四千−四千五百年前)の墓列と住居跡が出土している。墓と隣接する住居跡はほぼ同じ時代のものとみられている。住居の土間の部分は、当時の住人が常に踏みしめていたため非常に固くなっており、解説を担当した同対策室の秦光次郎主事が棒でたたいてみせると、参加者たちは興味深そうに見詰めていた。 また、十八次調査区は同遺跡で最も高い地点(標高三五−四〇メートル)にあり、土坑墓らしい遺構と貯蔵穴らしい遺構が出土している。十九次調査区からは、建物跡を構成する木柱が見つかった。参加者からは「こんな遺跡のはずれまで墓が続いていたなんて」「貯蔵庫には、どんな植物を保管していたのだろうか」などの声が上がっていた。
青森市の三内丸山遺跡の国特別史跡指定に向け、県教委は二十五日、文化庁に指定申請書を提出した。十月にも国の文化財保護審議会に諮問され、その答申を受け次第、早ければ年内にも指定が実現する見込み。 申請書は木村守男知事名で、大島理森文相あて。これまでの発掘調査の成果などが記されており、佐藤正昭県教育長が上京し、文化庁文化財保護部記念物課の惣脇宏課長に提出した。 惣脇課長は「三内丸山遺跡は縄文遺跡の代表として、非常に優れた価値を持つ。できるだけ早く諮問し、年内にも答申をいただき、指定したい」と語った。 文相名での審議会への諮問後は、専門調査会での専門的な審議を経て答申される。佐藤教育長は「一日も早く指定が実現するよう期待する」と述べた。 三内丸山遺跡は平成九年三月に国の史跡に指定されているが、特別史跡は「史跡の中でも特に重要なもの」(文化財保護法)で、現在、全国で五十八カ所が指定されている。指定されれば、平成三年の吉野ケ里遺跡(佐賀県)以来九年ぶりとなる。
青森市の三内丸山遺跡から出土した約五千五百年前のマメ科種子は、大豆の祖先である野生種のツルマメの可能性が高いことが二十四日、北海道大学の島本義也教授の分析で明らかになった。さらに、島本教授は大豆の在来品種のDNAデータと照らし合わせた結果、「これまで、大豆は中国が起源とされてきたが、日本独自の栽培種も存在すると考えられる」と指摘。その起源地の一つとして、本県をはじめとした東北地方を挙げた。 同日、弘前市の弘大五十周年記念会館みちのくホールで開かれた日本育種学会の公開シンポ「三内丸山遺跡と日本の食文化を支える作物」で発表した。ツルマメとみられる種子遺物は平成六年、沖館川に面する遺跡北側斜面の縄文前期半ばの地層から出土。県教委三内丸山遺跡対策室の依頼を受けた島本教授が五粒を調べたところ、二粒がツルマメに似ていることが分かった。 一方、島本教授は現在日本と中国で食用にされている主な栽培大豆の葉緑体とミトコンドリアに含まれるDNAを分析し、それぞれの“母親(母系型)探し”を行った。 その結果、在来品種は大きく八種類に分かれ、うち「丹波黒」と呼ばれる種類の母系型は、中国には求められないことが明らかになった。また「大谷地」と呼ばれる品種は、中国の長江流域と日本の東北地方のみに分布し、それぞれの場所で独自に栽培化したと考えられることが分かった。 こうした調査結果から、島本教授は「大豆の起源は中国だけではなく、日本にもあったと考えられる」と結論。「三内丸山文化圏は栽培大豆の祖先であるツルマメが生えていたなど、起源地の候補として条件がそろっている」とした。島本教授は「DNA分析からは、いつの時点でツルマメが栽培化されたかは分からない。しかし、三内丸山文化圏に代表される東北の文化の高さが自生のツルマメを利用し、栽培化させた可能性がある」と話している。 これまで、栽培大豆の起源は五千年前の中国−という単一起源説が通説だった。これに対して、島本教授の新説は多起源説とも言うべきもので、植物、考古学会に与える影響は大きい。
県教委は、青森市の三内丸山遺跡が、国特別史跡指定を受けるための手続きとして、指定申請書を二十五日に文化庁へ提出することを決めた。文化庁は申請を受け、十月に国の文化財保護審議会へ諮問。審議会からの答申を経て、早ければ年内にも特別史跡指定が実現する可能性が高い。 三内丸山遺跡は平成九年三月五日に国の史跡指定を受けた。特別史跡は「史跡の中でも特に価値があり、日本文化の象徴であるもの」と位置づけられており、全国で五十八カ所。そのうち、縄文遺跡は長野県茅野市の尖石石器時代遺跡(昭和二十七年)と秋田県鹿角市の大湯環状列石(同三十一年)の二カ所だけ。 今年七月に、大島理森文相・科技庁長官が同遺跡を視察し特別史跡指定へ前向きな意向を示した。八月には佐々木正峰文化庁長官も遺跡を訪れ、指定へ向けて手続きを進めることを明らかにしていた。二十五日は、佐藤正昭県教育長と三浦圭介三内丸山遺跡対策室長が文化庁文化財保護部を訪れ、指定申請書を提出する。
食料植物の栽培、さらに一歩進んで原始的農耕の存在が当然のように語られ始めた縄文文化−。こうした「縄文農耕論」浮上のきっかけをつくった青森市の三内丸山遺跡をキーワードに、ダイズやムギなど日本人とかかわりの深い栽培植物の起源や伝播(ぱ)、人間とのかかわりについて考える日本育種学会の公開シンポジウム「三内丸山遺跡と日本の食文化を支える作物」が二十四日、弘前市の弘大創立五十周年記念会館みちのくホールで開かれる。 全国の大学、企業、研究機関の動・植物学者が一堂に会する第四十二回日本育種学会のミレニアム記念行事として、弘大農学生命科学部が企画。「DNAに代表される遺伝科学の面白さを、一般市民に理解してもらおう」(大会運営委)というのが狙い。 シンポでは、県教委三内丸山遺跡対策室の岡田康博主幹が「三内丸山遺跡にみる縄文文化と食料」と題して講演。八年間にわたる発掘で明らかになったヒョウタンやヒエなど栽培植物の出土例を紹介しながら、五百人ともいわれる巨大集落を維持した食料の供給体制、それを支えた文化的な基盤などについて説明する。 また、ムギの研究で知られる横浜市立大の辻本壽助教授が、六年前に三内丸山から見つかり「縄文最古のムギ」と話題を呼んだイネ科植物(一粒)の分析結果などを報告。合わせて、主要作物の一つであるコムギが日本に至るまでの伝播ルートを地球規模で語る。 その後、「イネの道」研究の第一人者である静岡大の佐藤洋一郎助教授をコーディネーターに、四人のパネリストが「野生植物の栽培化と食文化の形成」をテーマにディスカッションする。 シンポジウムの参加は無料だが、三百人の定員になり次第締め切りとなる。時間は午前十時から午後一時まで。 大会運営委の石川隆二弘大助教授は「日本を代表する三内丸山と最先端の遺伝科学の組み合わせは刺激的で興味深いものになるはず。自然科学に関心のある中、高校生にとっても参考になるだろう」と話している。
「縄文夜学」と題したイベントが十五日夜、青森市の三内丸山遺跡で開かれ、約七十人の熱心な考古学ファンらが月明かりの下、縄文談義や野外演奏などを楽しんだ。同イベントは、県の「サマーフェスタin三内丸山2000」の一環で、三内丸山縄文発信の会の協力で初めて行われた。 復元大型住居の中で行われた“夜学”では、小山修三・国立民族学博物館教授、市川金丸・県考古学会会長、岡田康博・県三内丸山遺跡対策室主管の講師陣が三内丸山に抱く夢などについて持論を展開、参加者らが熱心に耳を傾けた。 引き続き行われた月見コンサートでは、津軽三味線奏者の山上進さん、民謡歌手の工藤兼一さんが津軽山唄などを披露すると、東の雲間から大きな月が顔をのぞかせた。参加者たちは、かがり火がたかれ、ススキや供物が飾られた野外での演奏に聞き入りながら、悠久の昔に思いをはせていた。 ※写真は復元大型住居の中で繰り広げられる縄文談義に熱心に耳を傾ける考古学ファンら
カラスムギの可能性が高いイネ科植物は平成六年に、沖館川に面する遺跡の北側斜面から出土。県教委三内丸山遺跡対策室から依頼を受けた植物学の専門家が分析し、「原始的なムギ」に類似している−との結果が出ていた。 種類をさらに特定するため、ムギの研究で知られる辻本助教授が今年七月から調査を開始。一カ月以上にわたって分析したところ、「形態などから、カラスムギかそれに近いイネ科の雑草と考えられる」との結論に達した。カラスムギは食用にも使えるが、辻本助教授はわずか一粒という出土状況から「人間が食べ残したというよりは、野生状態のものから種がこぼれ落ちたのではないか」としている。 カラスムギは西アジア原産で、オオムギやエンマコムギなど栽培用のムギ畑に雑草として生えていることが多い。世界各地への伝播の過程で栽培化したのが、現在飼料などに使われているエンバク(燕麦)だ。 佐藤助教授はカラスムギがコムギ、オオムギなどの栽培植物に伴う点に注目。「栽培植物の存在を指摘する傍証といえるのではないか。三内丸山の時代にすでに、オオムギやコムギが存在した可能性を考慮する必要がある。非常に興味深い」としている。 縄文時代の穀物を研究する吉崎教授は、「カラスムギ」の精密な年代測定の必要性を指摘とした上で「オオムギ、コムギが縄文前期(六千−五千年前)に大陸から日本列島に渡っていた可能性を考える必要がある。個人的には、栽培植物は早期(九千−六千年前)の段階で日本列島に入っていた可能性があると考えている。今後は、そうしたことを考慮に入れた研究が必要だろう」と話している。 全国的にみて、縄文期のムギ類の出土例は少ない上に精度が低く、あっても後期以降(四千年前−)が大半。それだけに、「栽培植物の傍証となる」(佐藤助教授)三内丸山の「カラスムギ」が持つ考古、植物学的な意味は大きく、今後の調査でオオムギもしくはコムギが出土すれば、国内最古となる。 また、大陸から日本列島への栽培植物の伝播ルートを見直す必要性も出てきた。三内丸山が本州の最北端に位置するためで、佐藤助教授は「栽培植物がこれまで言われてきたように朝鮮半島経由のほかに、大陸の北回りで入って来た可能性があることも考えなくてはいけない」と話している。 辻本助教授の調査結果は二十四日に弘大で開かれる日本育種学会の公開シンポジウム「三内丸山遺跡と日本の食文化を支える作物」で発表される。 ※写真はカラスムギの可能性が高い三内丸山遺跡出土のイネ科植物(右)
縄文アート展「三内丸山遺跡と漆の美」(三内丸山実行委員会主催)が九、十の二日間、青森市の三内丸山遺跡体験学習館で開かれている。今回の展覧会は県工業試験場漆工部が制作した「現代の漆器」を合わせて比較公開するという初の試み。 展覧会には遺跡から出土した約五千五百年前の台付き皿や鉢、くしの破片など六点が展示されている。さらに県工試が制作した盛り皿やぐい飲み、ペンダント、ペーパーナイフなど計十種も合わせて展示した。 県工試が制作した作品は、遺跡からの出土品をモチーフにしたもので、ペーパーナイフはイヤリングのデザインを基調とした新機軸の作品。陶器に漆を塗った食器も展示。県工試は将来的にこれらの作品をお土産品などとして制作・販売することも検討中という。 展示品を目にした神奈川県逗子市の渡辺秀夫さん(52)は「出土品を参考にした県工試の作品はとてもユニーク。素朴な作りで実用的だ」と話していた。
三内丸山遺跡(青森市)を活用した都市公園として県が整備している、県総合運動公園遺跡ゾーンの愛称が「縄文の丘『三内まほろばパーク』」に決まり二十七日、県が同遺跡で発表した。選ばれたのは全国を対象に行った人気投票で最も得票が多かった、五所川原市の小笠原弘子さんの作品。県はこの愛称を、同遺跡で今後開かれる様々なイベントのPRなどに活用していく。 愛称は今春募集し、四千七百四十三点の応募があった。村越潔・青森大学教授らによる審査委員会が一次審査で五点を選び、七月から八月にかけて全国に人気投票を実施。三千五百十七票が集まった中で、小笠原さんの作品が九百三十三票と最多得票で最優秀賞となった。 県は二十七日、同遺跡で愛称発表に続き表彰式を行い、県土木部の小山内忠昭次長が小笠原さんに表彰状と賞金を手渡した。小笠原さんは「都市公園として整備される遺跡に、もっと多くの人に来てもらいたいと思った」と、応募の動機を話していた。 一次審査を通過し人気投票の対象となった四点の作者には、優秀賞を贈った。 優秀賞の作者は次の通り。 渡辺繁夫(鳥取県境港市)鈴木卓(青森市)星野雅一(神奈川県三浦市)山口正子(尾上町)
青森市の三内丸山遺跡を舞台にだれも見たことのない縄文空間を展開しよう−と、大阪府吹田市の画家安芸早穂子さんと茨城県水戸市のイラストレーターさかいひろこさんが二十六日−九月一日の七日間、共同作品展「アートする縄文」を開催する。縄文をテーマにした絵画や漫画で活躍中の二人は、「縄文の世界をこれまでと違った切り口で、幅広い世代の人たちに見せたい」と意気込みながら、展示の準備を進めている。 会場となる同遺跡の体験学習室には、二人の原画が五十点以上展示されるほか、ビニールやプラスチックなどの素材を使って共同制作した“土偶”などが並ぶ。 また、二人は同遺跡内で木の枝や根、ツタなどを拾い集めており、これらを利用したオブジェを作って会場を埋めていく。 「ムンクの叫び」をパロディー化した土偶や、土器に色とりどりのビニールテープを組み合わせたオブジェを制作中の安芸さんは、「遺跡で行われるイベントはたいてい決まりきっているので、面白おかしく見せたり、ティーンエージャーにすてきと思わせるような新しい方法で、縄文を紹介したい」と話している。 二人は今後、「ワークショップ地母神(ちぼしん)」を結成し、親子を対象にした作品教室などの活動を展開していくが、この作品展はその第一歩となる。 ※写真は作品展「アートする縄文」の準備を進める安芸さん(左)、さかいさん
青森市で開催中の「秦の始皇帝と兵馬俑展」(東奥日報社主催)の随行員として来日している中国人研究者三人が二十三日、同市の三内丸山遺跡を視察。六本柱に代表される木造建物群の巨大さに驚きの声を上げる一方、一般市民に積極公開する発掘調査方法に「中国でも見習う必要がある」と感心しきりだった。 遺跡を訪れたのは、陝西(せんせい)省考古研究所の張建林副研究員、秦始皇陵兵馬俑博物館考古部の王志友研究員、西安半坡(はんば)博物館陳列部の王秀副主任。 一行は県教委三内丸山遺跡対策室の岡田康博主幹の案内で遺跡内を回り、新たに土抗墓が出土し、墓域の拡大が確認されている遺跡南西部の調査区では「遺跡の範囲の確認法は」「環状配石墓から副葬品は見つかっていないのか」などと専門的な質問を連発した。 視察後、リーダー格の張副研究員は「三内丸山は縄文を代表とする遺跡として、中国でも有名だ。しかし、あらためて実物を目の当たりにすると、その巨大さにびっくり」と驚きの声。特に気になった遺構として高さ約十五メートルの六本柱建物を挙げ「縄文人にとって、生活の中で最も大事だったのが祭祀(し)。天の神に食物などをささげる祭壇だったのでは」と語った。 王秀副主任と王志友研究員は博物館職員の立場から、「見せる遺跡」「参加する遺跡」としての側面に注目。「発掘の場面をその場で公開することは素晴らしい」「体験学習を通して、親子が土偶や組みひもを復元しているのには感動した。市民の関心もより高まるはず」と話していた。
青森市の国史跡・三内丸山遺跡で二十一日、通算見学者二百五十万人を達成し、同遺跡内展示室前で記念セレモニーが行われた。二百五十万人目となったのは、妹と一緒に訪れていた八戸市旭ケ丘二丁目の主婦小堀徳子さん(50)。 三浦圭介県教委三内丸山遺跡対策室長から花束と大型板状土偶のレプリカ、リンゴジュースを贈られると、小堀さんは思いがけない幸運を喜びながら、「三内丸山は初めてだが、すごいという驚きの声しか出ない。今後の発掘で何が出てくるか、まだまだ夢が膨らみますね」と笑顔で話していた。 同遺跡は平成六年八月に一般公開を開始して以来、県内外の考古ファンや修学旅行生など数多くの見学者が訪れ、九年七月一日に百万人、十一年六月十六日に二百万人を突破している。三浦室長は「ここ一、二年は見学者が落ち込み気味だが、遺跡の楽しさを知ってもらうような活用策を考え、本格整備を進めていきたい」と話している。 ※写真は三内丸山遺跡の250万人目の見学者として三浦室長から記念品を贈られる小堀さん(左)
【北京市で斉藤光政本社記者】 日本・中国先史時代遺跡共同発掘調査実行委(事務局・東奥日報社)が進める日中共同研究で中国を訪問中の岡田康博県教委三内丸山遺跡対策室主幹は三十日、北京市金台飯店で開かれている中国社会科学院考古研究所の設立五十周年記念国際シンポ(二十八−八月一日)に参加。縄文文化を代表する巨大集落として国際的注目を集める三内丸山(青森市)の概要と発掘の意義について発表した。 シンポは「二十一世紀の中国考古学と世界の考古学」をテーマに、中国のほか日本、米国、ドイツ、カナダなど七カ国の考古学者約二百人が参加。岡田主幹は三日目の発表者の二番手として登場し、「日本の三内丸山、縄文時代の大型集落の発掘」と題して三十分にわたって講演した。 この中で岡田主幹は三内丸山の特徴を「最新の年代測定によると、五千九百年前から三千八百年前まで二千年にわたって維持された拠点集落で、交流、交易、生産の中心地として機能した」と説明。「墓と住居は明確に区分され、墓については遺跡東側から土坑墓、西側から環状配石墓(ストーンサークル)が出土している」とした。 また、三内丸山びとの“自然管理”についても触れ、「アズキ、ヒエ、クリなどの栽培植物が見つかっており、クリは木材などに多用されていた」と述べた。 発表後、中国側の参加者から質問が続出。三内丸山とほぼ同時代の興隆窪(こうりゅうわ)文化(約八千−七千年前)の研究者として知られる同研究所の揚虎教授は「ストーンサークルから副葬品が出ているか」とした。 これに対して、岡田主幹は「副葬品が見つかれば、社会的階層の存在がはっきりするが、そこまで調査は進んでいない。しかし、人骨はゴミ捨て場からも見つかっている。ということは(1)配石を伴う墓(2)伴わない墓(3)墓そのものがないもの−と三種類の埋葬方法があったと考えられる」と墓制から浮かび上がる階層社会の可能性を指摘した。 日中共同研究は同実行委が中国社会科学院考古研究所と今年スタートさせたもので、土器などの遺物を通して三内丸山に代表される縄文文化と同時代の中国東北部の先史文化の関連性を探るのが狙い。 岡田主幹のほか、文化庁の岡村道雄主任文化財調査官、東北学院大の佐川正敏助教授らが八月三日まで十日間にわたって中国東北部の関連遺跡などを踏査している。
東奥日報社が主催する「中国東北古跡の旅〜三内丸山のルーツを訪ねて」のツアー一行が二十六日、中国北方航空のチャーター便で青森空港に到着。出迎えの家族らに日焼けした笑顔を見せていた。 一行は県内外から参加した考古、歴史ファンら約百四十人で、二十一日に同空港を出発し、中国東北部の玄関である遼寧省瀋陽市入り。青森市の三内丸山に代表される縄文遺跡との文化的関連性が指摘されている興隆窪(こうりゅうわ)文化(約八千−七千年前)の新楽(しんら、瀋陽市)、査海(さかい、同省阜新市)、興隆溝(内モンゴル自治区赤峰市)などの遺跡と資料館を見学した。 また、遺跡見学後は清王朝の離宮で世界遺産に指定されている河北省承徳市の避暑山荘を経由して北京へと移動し、空路帰青した。 ツアーには文化庁の岡村道雄主任文化財調査官、東北大の鈴木三男教授、東北学院大の佐川正敏助教授、県教委三内丸山遺跡対策室の岡田康博主幹ら考古、植物学の専門家が同行。二十二日には阜新市の康大酒店で「縄文の源流を探る」をテーマにミニフォーラムを開き、日本の北部と中国東北部を結ぶ壮大な文化交流に思いをはせた。フォーラムには中国社会料学院考古研究所の王巍副所長も参加した。
夏本番に入った県内。22日、青森市では「サマーフェスタin三内丸山」が行われ、家族連れやカップルがむせ返る暑さをものともせず楽しんでいた。 ◇ 「サマーフェスタin三内丸山」はこの日から青森市の国史跡・三内丸山遺跡を舞台に始まった。時折雨に見舞われたにもかかわらず、オープニングイベントに多くの家族連れが訪れた。 遺跡内のステージでは「縄文ファッションショー」が繰り広げられた。服飾研究家の尾関清子さんが県内外の縄文遺跡から出土した布を再現し、土器の文様などをあしらって制作した縄文服二十着を、三内西小の児童がモデルになって披露。モデルの一人、工藤麻耶さん(六年)は「思ったより柔らかいし、風通しがよくて涼しい」と、すっかり気に入った様子だった。 また、五千年前の縄文の雰囲気を味わってもらおうと、当時の生活を再現した「縄文生活」コーナーが登場。縄文人に扮(ふん)した県内外の専門家らが、ヒスイの加工や石斧(せきふ)作り、当時の調理風景などを実演して紹介。土器の復元体験や縄文の調べコンサートも行われた。 イベントは二十三日も引き続き行われる。サマーフェスタは九月十五日まで。
東奥日報社が主催する「中国東北古跡の旅〜三内丸山のルーツを訪ねて〜」の参加者一行が二十一日、青森空港から中国北方航空のチャーター便で、中国東北部の玄関である遼寧省瀋陽市へ向かった。一行は県内外の考古、歴史ファンら約百四十人。三内丸山など縄文遺跡との文化的関連性が指摘されている同省の新楽(しんら)、査海(さかい)、内モンゴル自治区の興隆溝(こうりゅうこう)など約七千年前の遺跡と資料館を見学。北東アジアの視点から縄文文化のルーツを考える。 遺跡見学後は清王朝の夏の離宮で世界遺産にも指定されている避暑山荘(河北省)を経由して北京へ移動。二十六日にチャーター便で帰青する。 ツアーには日本先史時代遺跡共同発掘調査実行委(事務局・東奥日報社)が今年、中国社会科学院考古研究所(劉慶柱所長)と着手する共同研究のメンバーとして、文化庁の岡村道雄主任文化財調査官、東北大の鈴木三男教授、東北学院大の佐川正敏助教授、県教委三内丸山遺跡対策室の岡田康博主幹らが同行。興隆溝を見学後、ツアー一行と分かれ、東北部一帯に分布する興隆溝と同時代の遺跡や出土遺物を調査する。 ※写真は出発の準備をするツアーの一行=青森空港
大島理森文相(科技庁長官)は二十一日、青森市の三内丸山遺跡について、国の特別史跡指定へ向け「県の強い要請があり、年内に文化財保護審議会に諮りたい」との方針を明言した。同日、長官室を訪ねた木村守男知事に伝えた後、報道陣に対し明らかにした。 特別史跡は、文化財保護法で歴史的に特に価値が高いものを指定する−とされており、現在五十八カ所ある。 指定されれば平成三年の吉野ケ里遺跡(佐賀県)以来九年ぶりで、長期の間が置かれているため、所管する文化庁は現在、指定の際の基準などについてあらためて検討を急いでいる。 審議会への諮問時期など具体的なスケジュールについてはまだ決まっていないが、文化庁伝統文化課によると、審議会は例年で年に八、九回開催され、諮問後の学術的な調査、審議、答申までは通常で一カ月、長くて二カ月程度かかるという。
米国北西部の先住民の研究で知られるポートランド州立大(オレゴン州)のケネス・エイムズ教授(人類学)が、青森市の三内丸山遺跡で、県教委職員に交じって調査研究に汗を流している。外国研究者が同遺跡に腰を落ち着けて研究に当たるのはカリフォルニア大バークレー校のグループに次いで二例目。エイムズ教授は「縄文文化のエッセンスを吸収したい」と張り切っている。エイムズ教授が遺跡入りしたのは今月十三日。県教委三内丸山遺跡対策室の岡田康博主幹の案内で遺跡を一回りし、遺構と遺物の出土位置を確認した後に十四日から調査研究を始めた。 膨大な遺構の中で、エイムズ教授が特に注目したのは全長三十二メートルと国内最大級の大型竪穴住居。米国北西部の先住民の遺跡から同規模の住居跡が出土している−と指摘した上で「米国の場合には建物内に複数の家族が住んだが、その位置は地位の順を示している。。五千年前の三内丸山に階層が存在したのか、ぜひ知りたい」と語った。 また、縄文文化に興味を持ったきっかけについては「一昨年、青森市で開かれた国際狩猟採集民会議の資料などで三内丸山を知った。米国北西部の先住民も同じモンゴロイドで、三内丸山と同様に高度な集落生活を営んだ。両者に文化的関連はないのか。三内丸山を知ることは縄文文化を理解することにつながると信じている」とした。 エイムズ教授は二十一日まで滞在。同市の小牧野遺跡なども視察する。 ※写真は三内丸山遺跡から出土したばかりの土坑(こう)墓を見るエイムズ教授(左から2人目)。右は同行した家族
大島理森文相・科技庁長官は十五日、青森市の三内丸山遺跡を視察し、「国の特別史跡の指定を前向きに検討したい」との意向を示した。 三内丸山遺跡は平成九年三月五日に国の史跡の指定を受けた。特別史跡は史跡の中でも特に価値があり、日本文化の象徴であるものと位置付けられている。 県教育庁文化課の三浦圭介・三内丸山遺跡対策室長の案内で遺跡を回った大島氏は、六本柱の建物や土坑墓などに興味深く見入り、「年代を調べるポイントは」などと質問した。 遺跡の初視察を終えた大島氏は「縄文中期でこのような大掛かりなものはないとあらためて認識した」との印象を語った上で、「(佐賀県の)吉野ケ里と比べてもその価値は劣るものではない。本県だけでなく、国の遺産であり国民の財産。国としても特別史跡指定を前向きに検討したい」と語った。
日本先史時代遺跡共同発掘調査実行委(事務局・東奥日報社)が、中国内モンゴル自治区の興隆溝(こうりゅうこう)遺跡で行う日中合同の調査に合わせて、東奥日報社が主催する「中国東北古跡の旅〜三内丸山のルーツを訪ねて〜」がいよいよ二十一日に出発する。中国側の事情により調査日程に遅れが出ているため、発掘の模様は見学することができないが、代わりに中国社会科学院考古研究所の考古専門家から現地説明を受ける。一方、発掘調査と並行して実施する予定だった共同研究は今月下旬に本格スタートさせる。 日中合同の調査は東奥日報社と県、青森市がつくる同実行委が同研究所と進めているもので、四月に北京市で協定書に調印。七月から三カ月にわたって現地調査を行い、日本側は栽培植物と家畜の有無など科学分析の分野で協力する計画だった。 「中国東北古跡の旅」は、こうした現地調査の模様と中国東北部の関連遺跡を見学するもので、期間は二十六日までの六日間。計画の一部変更に伴って、興隆溝遺跡では現地説明を受けるほか、土器・石器が残り、七千年前の面影を残す遺跡内を実際に歩いて見学する。 共同研究には、調査団メンバーの岡村道雄・文化庁主任文化財調査官(考古学)、鈴木三男・東北大教授(森林生態学)、佐川正敏・東北学院大助教授(考古学)、岡田康博・県教委三内丸山遺跡対策室主幹(同)らが参加。日中共通の年代観確立に向けた土器編年や関連遺跡の分布調査などを行う。
青森市の国史跡・三内丸山遺跡で十日、本年度の調査では初めての成果となる土坑墓が一基、遺跡西側の調査区で確認された。 今回見つかった土坑墓は、前年度の調査で多数の土坑墓が密接して見つかった地点の、さらに南側斜面から発掘された。墓の底面に溝が掘ってあることや、「墓の道」に対して直角方向に向いているという特徴から、土坑墓と断定された。 今後は墓の内部を精査して年代特定につながる遺物の有無を調べるほか、墓域の幅がさらに南側に延びるのかどうかを確認する。 また、これまでの調査で、多数の土器片を含む盛土(もりど)遺構(西盛土)が調査区上に広く覆いかぶさっていることが分かった。このため、本年度調査の大きな目的である、遺跡西側の墓域の範囲と年代の確定や、墓域に伴う道路跡の確認は難航している。 今後は前年度見つかった中で最も西寄りの土坑墓や道路跡に接する地点を精査して、墓域や道路跡の終結部分の確定を目指す。
県は、青森市の三内丸山遺跡を活用した公園として整備中の新しい県総合運動公園遺跡ゾーンの愛称を決めるため、七月から全国で人気投票をスタートさせた。 投票の対象は、一次審査で四千七百四十三点の作品の中から選ばれた(1)北のまほろば「三内丸山縄文公園」(2)「三内丸山縄文の丘」(3)縄文の丘「三内まほろばパーク」(4)「縄文パーク三内丸山」(5)縄文ピア「三内丸山遺跡公園」の五点。人気投票で最も得票数の多かったものを愛称に決め、遺跡PRのため活用する。応募者のうち抽選で百人に遺跡オリジナルグッズを贈る。 投票は、はがき、ファクス、Eメールか遺跡休憩所に備え付けの用紙で、愛称名、住所、氏名(ふりがな)、年齢、性別、職業または学校名(学年)、電話番号を記入し、郵便番号030-0822、青森市中央三ノ二〇ノ一、県都市公園建設事務所(ファクス017-774-0569)へ。Eメールアドレスはtoshiken@ags.pref.aomori.jp 締め切りは八月十日(当日消印有効)。 |
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