過去の記事 三内丸山遺跡


■ 東奥日報社主催「中国古跡の旅」説明会(2000.6.28)

 日本・中国先史時代遺跡共同発掘調査実行委員会(会長・佐々木高雄東奥日報社長)が、中国内モンゴル自治区の興隆溝(こうりゅうこう)遺跡でスタートさせる合同調査に合わせて、東奥日報社が七月に行う「中国東北古跡の旅〜三内丸山のルーツを訪ねて〜」(二十一−二十六日)の参加者説明会が二十七日、青森市の県火災共済会館で開かれた。

 説明会には、ツアー参加者約百三十人のうち半数が出席。主催者を代表して佐々木社長が「縄文文化は自然発生したのではなく、海の向こうの大陸とどこかでつながっていると考えている。中国東北部の各遺跡を通して、縄文のルーツを体感できる今回のツアーは、興味深いものになるはず」とあいさつした。

 続いて、同実行委のメンバーとして日中の合同調査に参加する県教委三内丸山遺跡対策室の岡田康博主幹が、新楽(しんら、遼寧省)、査海(さかい、同)などツアーで回る遺跡の特徴と見どころを説明。中でも、日中共同研究のの舞台となる興隆溝については、「栽培植物があったかどうかの確認がポイントになる」と強調。「ツアーが興隆溝を訪れる七月下旬までに成果が挙がればと考えている。遺跡で再会しましょう」と語った。




■ 「遺跡ゾーン」の愛称5作品が2次審査へ(2000.6.28)

 県が青森市の三内丸山遺跡を活用して整備を進めている県総合運動公園遺跡ゾーンの愛称審査委員会が二十七日、青森市の青森グランドホテルで開かれ、二次審査(一般人気投票)の対象とする五作品を選出した。最優秀作は八月二十七日に同遺跡で開く「サマーフェスタ」で発表する。愛称は、同遺跡を含む県総合運動公園遺跡ゾーンの整備に合わせて県が募集。国内外から四千七百四十三点が寄せられた。

 審査委員会では、村越潔青森大教授を中心に三内丸山応援隊メンバーや地元中学生など十人の委員が、全作品の中から、各自の推薦作品を挙げて検討。応募作品に委員らの意見を加え「縄文トピア 三内丸山遺跡公園」「北のまほろば 三内丸山縄文公園」「縄文パーク三内丸山」「縄文の丘 三内まほろばパーク」「三内丸山縄文の丘」の五案を選出した。 

 県は、この五案を基に最優秀作一点を決める人気投票を七月一日から全国で始めることにしており、同遺跡のほか、全国の自治体、県内の官公庁や金融機関などに投票用紙を設置する。




■ 呉服店が草木を使い「縄文染め」(2000.6.9)

写真  本県が誇る歴史的遺産・三内丸山遺跡や縄文文化を着物に表現しようと、青森市内の呉服店が草木染めの織物「縄文染め」を創作した。クリの実の皮などを使って染めた糸を生地に織り上げ、土器や土偶をモチーフにした図柄をあしらったり、大型掘っ立て柱を描いたもので、約五千年前の雄大な縄文世界をイメージさせる。制作した呉服店は地元の新しい文化として育てたいと期待を込め、「着物離れが進む若い人に関心を持ってもらえれば」と話している。

 縄文染めを考案したのは、青森市堤町の呉服店「高雄」(秋穂隆雄社長)。近年の着物離れに危機感を抱いていた秋穂社長が「全国的にも知名度が高く、世界にアピールできるスケールを持っている」と三内丸山遺跡に注目。京都市の着物研究者団体や群馬県桐生市の着物制作者などとともに、共同で制作した。

 縄文人は赤を好んだとされることから、アカネの茎や根を染料のベースにし、クリの実の皮やクルミの木の皮などを混ぜて、紫や深い茶色など微妙な色合いを作り出した。サクラやヤマモモの花びらを材料にした薄桃色など、明るい色調もそろえた。

 作品は、縄文世界のイメージを膨らませ、縄目模様を付けた上に板で挟んで木目の風合いを出し、クリの木をイメージさせる図柄をはじめ、土器や土偶の文様を思わせるモダンな幾何学模様、三内丸山遺跡の大型掘っ立て柱や大型竪穴住居をすそに手書きであしらったものなどさまざま。

 「御召(おめし)」と呼ばれるきめ細かい織り方で、「軽くて着心地がいい上、丈夫。日常のおしゃれ着にしてほしい」と話している。

 作品発表展を十日(午後一時−六時)と十一日(午前十時−午後六時)に青森市本町一丁目の「TAKARAイベントホール」で開く。入場無料。問い合わせは「高雄」(電話017-777-1251)へ。

※写真は三内丸山遺跡をイメージした「縄文染め」を手にする秋穂隆雄社長




■ 三内丸山遺跡の本年度発掘計画(2000.5.31)

写真  平成十二年度の第一回三内丸山遺跡発掘調査委員会(委員長・村越潔青大教授)が三十日、同遺跡体験学習館で開かれた。九年度の九次調査で確認され埋め戻されていた直径約六十センチのクリ木柱二本を掘り出して年代測定などの分析を行うことなどを盛り込み、合計三千平方メートルを調査することを決めた。

 本年度は第十七−十九次の調査区で行う。クリ木柱は展示館北側の十九次調査区にあり八月以降に着手する。九次調査の際に二本のクリ木柱が見つかったほか、四十基の柱穴や四棟以上の掘っ立て柱建物跡の存在が推定されている。

 木柱の分析にあたっては輪切りにする案が検討されている。切断には厚さ五ミリほどが削られるため、委員からは貴重な資料である木柱の形が失われることへの懸念も出た。しかし、年輪を調べ、生物学的なデータを収集することにより、縄文時代の暦を作製する上で重要な役割を果たすものと期待も高く、さらに検討することとした。

 また、すでに始まっている遺跡西側の十七次調査区は、昨年、確認された道路跡の北側を掘り進めている。北西方向に約百八十メートル延びているが、端がまだ確認されておらず、道の枝分かれの可能性も探る。道路跡に並行して続く墓域の確認、環状配石墓(ストーンサークル)と土坑墓の性格把握なども引き続き進める。

 また、遺跡西端の十八調査区は六年度の試掘で、盛土(もりど)遺構(西盛土)や縄文前期や中期の住居跡を確認、盛土内部では埋設土器が密集して見つかっており、初めて本格的な調査に入る。




■ 三内丸山遺跡で発掘調査を再開(2000.5.23)

写真  青森市の三内丸山遺跡で二十二日、本年度の発掘調査が始まった。今年は、昨年までの発掘で環状配石墓(ストーンサークル)などが見つかった遺跡西側を重点的に調査、墓域の範囲と年代を明らかにする。併せて、新たに存在が指摘されている、西へ延びる「墓の道」(道路状遺構)の範囲を探る。

 昨年までの調査では、七基の環状配石墓と、それに合わせて墓列が北西方向に向かって約百八十メートル延びていることが分かった。墓域からは環状配石墓のほか、配石を伴う土坑墓、伴わない土坑墓、埋設土器など、さまざまな種類の墓が見つかっている。

 今年は、それぞれの墓の年代を特定する。さらに、埋葬方法の違いが時代性によるものか、それとも階層によるものかを探ることで、縄文時代にあったかどうかが議論されている階層化社会の存在に迫る。
 このほか、遺跡西側のうち平成六年の試掘で多数の子供の墓が確認された西盛土(もりど)周辺を本格調査する。

 県教委三内丸山遺跡対策室の岡田康博主幹は「西盛土周辺は位置的に最も高い場所にある。建物跡が見つかった場合には、祭祀(さいし)が行われた場所だったかどうかの確認が課題となる。集落の性格に迫れるだろう」と話している。

 調査初日は、作業員四十人が西側の墓域周辺の下草を刈り取るなど、本格調査に向けて準備を進めた。本年度の調査は十月二十日まで。

※写真は新たな墓域の広がりが想定される遺跡西部の調査区。初日は下草を刈る作業を進めた=青森市の三内丸山遺跡




■ 縄文人の指紋、粘土塊にくっきり(2000.5.16)

写真  青森市の三内丸山(6)遺跡で出土した粘土の塊から、縄文人のものとみられる指紋が見つかった。指の第一関節を中心に押し付けてできたと考えられ、性別や年齢など詳しいことが分からないだけに見る者の想像をかき立てる。関係者は「圧痕(あっこん)と呼ばれる指で押した痕跡は土器などに見かけるが、ここまではっきり指紋と分かるものは珍しい」と驚きの声を上げている。

 指紋は横に走るしま模様が肉眼でもはっきり確認できるほど。幅約一・八センチ、長さ約三・五センチで、焼けた粘土の塊(約四センチ×五センチ)の表面に付いていた。一緒に出土した土器から、年代は縄文後期半ば(約三千五百年前)と推定される。

 分析に当たった県埋蔵文化財調査センターの相馬信吉主幹は、指紋鑑定のプロである県警本部鑑識課に調査を依頼。「中節紋という第一関節の部分に当たる。左右どちらかや、性別、年齢などは分からない」との回答を得た。

 相馬主幹は「作る過程で偶然付いたらしい指の跡が付いた土器はたまには出土する。しかし、たいていは表面を滑らかに仕上げるので、指紋まで残った例は県内では見たことがない。縄文人が土器を作るついでに、遊び半分で指紋を付けてみたのだろうか」と思案顔。

 「自分の指を合わせてみたら、右手の人さし指にぴたりとはまった。指の形は三千五百年経てもそれほど変わらないのですね」と感慨深げに語っていた。
 同遺跡は、三内丸山遺跡(縄文前−中期)から南東へ約一・五キロ離れた場所にあり、時代も異なる。

※写真は三内丸山(6)遺跡から出土した、縄文人の指紋がついた粘土の塊。指紋は写真上から下に向って付けられている。




■ 興隆溝遺跡7月から日中共同調査(2000.5.14)

 「大陸と日本列島を結ぶミッシング・リンク=失われた環(わ)=のなぞが説き明かされるかもしれません」。北東アジア考古学に詳しい東北学院大の佐川正敏助教授がつぶやいた。数千年前、中国東北部からロシア沿海州を経由して日本列島北部にまで延びていたとされる大きな文化の潮流。この「北の回廊」とも言うべき壮大な道の源流を探る日中共同の調査がいよいよ七月から始まる。舞台は中国内モンゴル自治区の興隆溝(こうりゅうこう)遺跡(約七千年前)。東奥日報社と県、青森市で組織する日中先史時代遺跡共同発掘調査実行委(会長・佐々木高雄東奥日報社長)は、調査元年に当たる今年の課題を原始的な農耕を意味する「植物栽培」と「家畜の飼育」の解明−に位置付け、最終的な準備作業を進めている。今夏の共同調査のポイントを紹介する。

写真 植物の栽培
 「七千年前に何を食べ、どういう生活をしていたのか。当時の人々の生活を復元したい」。共同調査のパートナーとなる中国社会科学院考古研究所の劉国祥副研究員は共同調査にかける意気込みをこう語る。
 中国側が大きな期待をかける「生業」の解明。それは、中国考古学が最も不得意にしていた分野だ。竪穴住居内の地層を一枚一枚はぐように採集しては水洗いにかけて分析するち密な作業。土壌中に残る種子や食べ物かすを確認するためだ。

 顕微鏡の中でしか見ることができない小さな世界。しかし、指先にやっと乗るようなこの種子の断片こそが、当時の食生活を物語る雄弁な証言者となる。そして、種類はもちろん、形態やDNAを分析することで栽培性まで確認できる。
 クリ、マメ、アワ、ヒョウタン、ヒエ…。三内丸山遺跡(青森市)で見つかった種子の数々は、縄文人が農耕の入り口に立っていたことを証明して見せた。「興隆溝はアワなどの雑穀類が出土してもおかしくない環境にある」と植物学者らは指摘する。

 百軒以上の大規模集落の出土が見込まれる興隆溝。その中から一粒でも植物の種子が見つかり、栽培性が確認されれば、「黄河以北で確認された最古の栽培植物」(日本側の実質的なリーダーを務める県教委三内丸山遺跡対策室の岡田康博主幹)となる。まさに、世界史レベルでの快挙だ。
 「中国考古学はこれまで、規模や形など遺跡の外観にだけ重点を置き、土壌分析は怠ってきた。だからこそ、自然科学を重視する日本の最新の研究法を導入したい」と中国側のリーダーを務める王巍同研究所副所長。中国が求めようとしている新しい血。それは科学の力にほかならない。

家畜の飼育
 イノシシはブタか−。問題はこれに尽きる。興隆溝と同時代の周辺遺跡の住居跡から見つかるイノシシの骨。中国側はこれを人間が飼育管理したブタと解釈している。種子類とともに、出土が予想されるイノシシの骨の分析には、動物考古学の第一人者である国立歴史民俗博物館の西本豊弘教授らが当たる。

 「縄文時代には家畜は存在しないというのが日本の定説。しかし、同時代の中国東北部では飼育が当然視されている。果たして、三内丸山など日本の縄文遺跡から見つかるイノシシは野生なのか、ブタ以上に飼育しやすいとされるウサギの家畜化の可能性はないのか。結果次第では、縄文の新しい形が見えてくるかもしれない」と岡田主幹は調査の意義を説明する。

歴史観見直し
 植物栽培と家畜の飼育。このような二つの文化要素から導き出される結論は「定住」という生活スタイルだ。北の回廊を中心に数千年前の北の文化は、「狩猟採集」という既存の歴史観だけではとらえきれない複雑な社会を営んでいた可能性を示唆している。
 「ムギとコメの栽培のみが農耕の始まりと考える世界の考古学は今、見直しを迫られている。その意味でも、植物栽培と家畜の起源に迫る日中共同調査点に注目したい。縄文文化のエッセンスを理解するためには、縄文という日本独自の概念、そして国境という枠を取り払う必要がある。その点をとらえても、北東アジアを一つの文化と考える共同調査は興味深い」

 欧州の農耕と家畜の起源を研究するパリ大のジャンポール・ドムール教授は二日、三内丸山を訪れこう言った。共同調査は二〇〇二年まで三年。縄文考古学の新たな可能性を探る旅でもある。

※写真は日中共同調査の舞台となる興隆溝遺跡(4月下旬撮影)




■ 「日中共同発掘」見学ツアー募集(2000.5.13)

写真  日本・中国先史時代遺跡共同発掘調査実行委員会(会長・佐々木高雄東奥日報社長)が、中国内モンゴル自治区の興隆溝(こうりゅうこう)遺跡で七月からスタートさせる日中合同の調査に合わせて、東奥日報社は発掘現場と関連遺跡を訪ねる「中国東北部古跡ツアー」を実施する。期間は同二十一日から六日間。青森空港発着の特別便をチャーターし、直接東北部に入る予定で、青森市の三内丸山遺跡に代表される「北の縄文文化」のルーツを探る画期的な旅となる。

 日中合同調査は、東奥日報社と県、青森市で組織する同実行委が、中国考古学の最高研究機関である中国社会科学院考古研究所(劉慶柱所長)をパートナーに行うもので、二〇〇二年までの三年計画。初年度に当たる今年は、百軒以上の出土が予想される集落の規模を確認するともに、植物の栽培と家畜の飼育の起源を主テーマに調査する。期間は九月まで三カ月。

 ツアーはこうした合同調査の模様を広く県民に知ってもらうのが狙い。計画によると、七月二十一日に青森空港を出発し、東北部の玄関である遼寧省瀋陽市へ。縄文文化との関連性が指摘される新楽(しんら)、査海(さかい)など同省内の七千年前の遺跡を見学した後、興隆溝遺跡に入る。

 興隆溝遺跡では、日中の研究者が共同で発掘調査に励む姿と、住居跡や土器など出土したばかりの遺構・遺物を見学。調査団員として参加する県教委三内丸山遺跡対策室の職員と、中国側のリーダーを務める同研究所の王巍副所長らから調査の進展ぶりや成果などについて説明してもらう。

 現地見学後は清朝歴代皇帝の離宮で世界遺産にも指定されている避暑山荘(河北省承徳市)を経由して北京へと移動し、帰青する。また、この発掘現場見学コースのほかに、北京の市内観光に重点を置いた別コースも用意している。中国国内の移動はバス。

 募集は二コース合わせて百三十人で、六月二十日締め切り。料金は十九万八千円(別コースは十九万七千円)。問い合わせは東奥日報社観光部(電話017-773-7777)へ。




■ 「神々の指紋」のG・ハンコック氏が遺跡を取材(2000.5.9)

 世界中で千五百万部の売り上げを記録したベストセラー「神々の指紋」などの著作で知られる英国の超古代史作家グラハム・ハンコック氏が八日、青森市の三内丸山遺跡を訪問。平成十年から出土が続く環状配石墓(ストーンサークル)群に強い関心を示し、「縄文は古代エジプトに先駆けて成立した文化。その代表格である三内丸山では、死後の世界を信じる洗練された精神文化が営まれていたと考えられる」と語った。

 来年の出版を予定している次回作「アンダー・ワールド」(仮題)取材のために訪れたもので、同遺跡は一昨年に続いて二度目。ハンコック氏は一連の著作の訳者である大地舜氏、歴史作家の鈴木旭氏とともに遺跡内をひと回りし、大人の土坑墓が東西に並ぶ「墓の道」では熱心にビデオカメラを回していた。

 視察後、ハンコック氏は縄文文化の印象について「一万二千年前から一万年間も続いた特別な文化。歴史上、最も早く土器を作ったのも縄文人であり、人類にとっては一大飛躍の時期だったといえる。そのエッセンスが失われることなく、現代の日本人の心の中にも影響を与え続けている。まさに驚きだ」と述べた。

 また、次回作のテーマについては「一万二千年前の氷河期の終了とともに水面下に没した失われた文明」と説明。「世界中で失われた文明と、その後に発生した縄文文化は何らかのつながりがあるかもしれない」と独自の歴史観を披露した。




■ 興隆溝遺跡共同発掘へ日中が調印(2000.4.25)

写真  【北京市で斉藤光政本社記者】中国内モンゴル自治区・興隆溝(こうりゅうこう)遺跡(約七千年前)での共同発掘計画を進める「日本・中国先史時代遺跡共同発掘調査実行委員会」(会長・佐々木高雄東奥日報社長)と中国社会科学院考古研究所(劉慶柱所長)は二十四日、北京市で同計画の実施に関する協定書に調印。七月から発掘調査に着手することを確認した。かつて満州と呼ばれた中国東北部に海外の研究チームが入るのは初めて。七千年前、日本列島北部と大陸との間に存在したとされる壮大な「北の文化交流」。そのなぞを解く扉が、本県を起点に大きく開かれようとしている。

 青森市の三内丸山をはじめとする縄文研究の進展に伴い、近年注目を集め始めたのが、縄文文化と大陸先史文化の関連性。共同発掘は両文化の共通性の意味を北東アジアの視点から解明するとともに、さらに一歩踏み込んで縄文のルーツを探るのが狙い。

 計画によると、調査期間は三年間。本年度は、未発掘遺跡である興隆溝の規模を確認するとともに、竪穴住居などの遺構を精査。遺構内部から出土する動、植物遺物を分析することで、七千年前の時点で植物栽培と家畜の飼育が行われていたかどうかを突き止める。

 北京飯店で行われた調印式には、同実行委から佐々木会長、事務局長の塩越隆雄東奥日報社編集局長、県教委三内丸山遺跡対策室の岡田康博主幹、中国側からは劉所長、王巍副所長らが出席。佐々木会長と劉所長が協定書を取り交わした後、がっちりと握手し、今後の協力を誓い合った。

 調印後、共同発掘にかける期待について、佐々木会長は「青森の三内丸山と興隆溝とはどこかで“血”がつながっていると確信している。アジア考古学の発展のため、同研究所と力を合わせて頑張りたい」。劉所長は「北東アジア先史文化の交流は重要なテーマで、中国側も注目している。共同調査を通して、交流史の研究が一層進展すると信じてやまない」と語った。

 本年度の調査は九月末まで三カ月。日本側からは町田章・奈良国立文化財研究所長を団長に、岡村道雄・文化庁主任文化財調査官ら国内一線級の考古学、自然科学者が参加。本県からは岡田主幹ら同対策室と青森市教委文化財課の職員が加わる。

 共同発掘の主体となる日本・中国先史時代遺跡共同発掘調査実行委は、東奥日報社、県教委、青森市教委で組織。計画実現に向けて、昨年から中国考古学研究のトップである中国社会科学院考古研究所と交渉を進めてきた。同八月には同研究所と共同で興隆溝遺跡の事前調査を行い、大規模集落の存在を示す大量の石器や土器片を確認している。

 興隆溝は、八千−七千年前に内モンゴル自治区から遼寧省にかけて広がった興隆窪(こうりゅうわ)文化を代表する集落遺跡で、規模は百軒程度と推測される。同文化は三内丸山と同様、定住性が高い狩猟採集生活を営んだのが特徴で、列状に並ぶ住居や*(けつ)状耳飾り、円筒土器など本県の縄文遺跡と類似する要素が多い。

※「*(けつ)状耳飾り」の「*」は「決」のさんずいが「王」
※写真は共同発掘調査の協定書に調印する佐々木会長(左)と劉所長=24日、中国北京市



■ 興隆溝遺跡七月から日中共同発掘(2000.4.20)

写真  東奥日報社、県、青森市で組織する「日本・中国先史時代遺跡共同発掘調査実行委員会」(会長・佐々木高雄東奥日報社長)は十九日、青森市の同社で会合を開き、中国社会科学院考古研究所(北京市)と進めていた中国内モンゴル自治区・興隆溝(こうりゅうこう)遺跡での共同発掘調査計画を承認、七月から着手することを決めた。今月二十四日に北京で同研究所と計画実施に関する調印式を行う。かつて満州と呼ばれた中国東北部に海外の研究チームが入るのは初めて。七千年前、日本列島北部と大陸との間で行われた壮大な「北の文化交流」のなぞが解明されると期待を集めている。

 近年、三内丸山(青森市)に代表される本県遺跡などの研究成果によって、中国東北部に分布する先史時代の遺跡と、北日本の縄文遺跡との文化的関連性がクローズアップされている。共同発掘は両文化の共通性の意味を、北東アジアの視点から解明するとともに、さらに一歩踏み込んで縄文のルーツを探るのが狙い。

 計画によると、調査期間は三年間。本年度は、未発掘遺跡である興隆溝の規模を確認するとともに、竪穴住居などの遺構を精査。遺構内部から出土する土器や石器などの各種遺物を分析することで、当時の生活や環境状態を再現する。

 調査の中で、特に重点を置いているのが種子などの植物遺物と骨など動物遺物の分析。形態やDNAを調べることで、七千年前の時点で植物の栽培と家畜の飼育が存在していたかどうかを突き止める。

 同実行委が昨年八月に行った事前踏査では大量の土器片と石器を確認。約千五百平方メートルの遺跡内には百軒に上る住居跡、遺跡外には石器の工房跡が眠ると推測されている。本年度の調査は九月まで三カ月。

 調査には町田章・奈良国立文化財研究所長を団長に、岡村道雄・文化庁主任文化財調査官、佐川正敏・東北学院大助教授ら国内第一線の考古学、自然科学者らが参加。県からは三内丸山遺跡の発掘責任者として知られる岡田康博・県教委主幹、青森市からは市教委文化財課の職員が加わる。

 また、中国側の団長は中国社会科学院考古研究所の劉慶柱所長が務め、王巍副所長、劉国祥副研究員が現場指揮を執る。

 東奥日報社は発掘調査に合わせて七月下旬、一般を対象に現地見学ツアーを実施。青森発着のチャーター便を飛ばす。詳しい日程が決まり次第、本紙で発表する。



■ 県が三内丸山遺跡ゾーンの愛称募集(2000.4.11)

 県は、青森市の三内丸山遺跡を活用した公園として整備を進めている新しい県総合運動公園遺跡ゾーンの愛称を募集している。

 遺跡ゾーンは、三内丸山遺跡を保存、活用し、縄文時代のたたずまいを体感できる都市公園として県土木部が整備を進めており、本年度は、来園者への総合サービス施設となる「(仮称)公園センター」建設に着手する。愛称の募集は、整備が進む遺跡周辺をより親しみやすい名称で県内外にPRするのが狙い。応募作品は、審査委員会による選考の後、一般人気投票で最優秀作を決める。

 応募は、愛称一点と住所、氏名(ふりがな)、年齢、性別、職業または学校名(学年)、電話番号を記入し、はがきかファクス、Eメールで、郵便番号030-0822、青森市中央3-2-1、県都市公園建設事務所(ファクス017-774-0569)へ。Eメールアドレスは
toshiken@ags.pref.aomori.jp
 締め切りは六月十日。


■ 海岸線で研究報告(2000.3.27)

 縄文時代に気候の温暖化により海水面が上昇した「縄文海進」は、三内丸山遺跡が栄える約二百年前に終わり、海岸線は同遺跡からすでに離れていたのではないかと、国立歴史民俗博物館の辻誠一郎助教授らの研究グループが指摘した。これまでは海岸線が同遺跡のすぐ近くにあったと考えられてきたが、辻助教授は「海に出るためには舟を使って川を下ったのではないか。今後の縄文びとの活動範囲の解読につなげたい」と分析している。

 この研究は、二十六日に青森市荒川の県総合社会教育センターで開かれた、県教委の同遺跡特別研究推進事業報告会で報告された。

 辻助教授は、縄文海進による青森市周辺の海岸線の移り変わりを調べるため、同市内四百地点のボーリング資料を分析した。最新の放射性炭素年代測定の結果、三内丸山遺跡近くの縄文海進の時期は、炭素年代で約六千−七千二百年前だったことが分かった。辻助教授らは同遺跡の存続期間を約五千八百−四千百年前としていることから、それより少なくとも約二百年前に海岸線が後退したことになる。

 また、地質の断面図を作成したところ、現在の青森市中心部では、縄文時代の海の生物のたい積が約十メートルしかないことが分かった。辻助教授は「縄文海進の典型とされる関東平野では四十メートル近くあることから、青森市周辺のたい積物は極めて薄く、縄文海進の時期が短かった」と説明した。

 報告会ではこのほか、国立民族学博物館の小山修三教授を代表とする研究グループが、円筒土器文化圏の土偶の特徴についての研究を発表した。北海道や本県の日本海側・太平洋側の土偶と、三内丸山遺跡の土偶を比較、分析。外見の特徴が似ていても粘土の成分に違いがあることから、各地から三内丸山に集まった人が各地域の特徴を持つ土偶を作った可能性もあると指摘した。



■ 十和田の森下さん「六本柱」で大胆な仮説(2000.3.26)

 十和田市の内科医・森下年晃さん(62)が、大胆な仮説“縄文測量”を駆使して縄文時代のなぞに迫った「星の巫(かんなぎ)」を文芸春秋企画出版部から五百部自費出版した。

 森下さんは仮説による分析の結果、青森市の三内丸山遺跡の六本柱は縄文人が縄文測量に使うもので、屋根はなく、遠くの山々を結ぶ直線が六本柱の一点に集まることを証明した−と述べている。

 「星の巫」はB6変形判、二百五十三ページ。「縄文測量の兆し」「縄文測量」「二つのまほろぼ」「縄文測量からみた郷土史」など十三章から成る。

 この中で森下さんは、特定の地名と山が一直線に並ぶ現象に気付いたと指摘。十和田市の霊山「月日山」−十和田市「程野」−三沢市「細谷」が地図上で直線に並ぶ、などとしている。

 縄文人は文字を持たないが、考古学の天体測量考古学、天文考古学の分野では、縄文人は星を崇拝、北半球では北極星を目印にしたとされることから、森下さんは「程」「細」の地名は「ホシ」(星)から変化したとの仮説を立てた。

 森下さんはさらに、縄文時代の星空をコンピューターでシミュレーション。地図上の「星」「細」など星関連の地名を調べ、画面に地図を写し、位置に規則性があることを知った。

 それによると、「星」「細」の地点は、山と山を結ぶ三本以上の直線の交点にあった。また「星」や「細」の地点は互いに直線や円周で結ばれていた。

 森下さんは、「星」や「細」など星関連地点を基にしたこれらの測量を縄文測量と定義した。この測量に基づき、三内丸山遺跡を分析した結果、六本柱に屋根はなく、かがり火をともし北極星を観測する施設と推論した。

 同遺跡で発見されたイモガイに似た土製品は、縄文測量に使った分銅(重り)とみている。

 六本柱の真下に立って縄文測量すると、南八甲田の櫛ケ峰、駒ケ峰などかなたの山々を結ぶ直線が六本柱の一点に集まるほか、都谷森山(浪岡町)と六本柱を結ぶ直線は、当時の北極星を指しているという。

 森下さんは測量結果から「縄文人は紙もなく記述もなく、伝承で日本列島のランドマークを熟知していた。大地、自然がリアルな地図だった」とみている。

 森下さんは同市西二十一番町一四ノ三八(電話0176-22-2331)。



■ 「西の道」も存在か(2000.3.25)

写真  三内丸山遺跡の「墓の道」(道路状遺構)が、南西から北東へ延びる道のほかに、新たに西へ延びる道が存在する可能性が出てきた。二十四日に開かれた発掘調査委員会議(委員長・村越潔青森大考古学研究所長)で報告、明らかにされたもので、これを受け県教委同遺跡対策室は、十二年度以降、西へ延びるとみられる道の解明や墓域がどこまで続くかなどの調査を進めていく方針だ。

 墓列に沿って延びる「墓の道」はこれまで、遺跡東端から西へ延びる土坑墓列の道(四百二十メートル)と、南側の環状配石墓の道(百七十メートル)が確認されている。二つの道は、大型掘っ立て柱建物などが立つ集落中心部で合流する可能性が高いとされてきた。

 新たに可能性が指摘されている道は、二つの道が合流する地点あたりから西側に延びるとみられている。本年度の調査で、環状配石墓から西側へ続く土坑墓列に沿って、地面の上に粘土を張りつけた跡が複数まばらに点在することが確認された。

 担当者は「過去の例からみて、人工的に手を加えられた跡があることや位置的に墓に近いことなどから、新たな墓の道の可能性が高い」と分析。十二年度以降の解明を急いでいる。

 今後の調査で墓の道であることが確認されると、同遺跡が複数の墓の道に支えられた一大宗教センターだった可能性が一段と高くなるとみられる。

 同会議では、本年度の結果を踏まえ、十二年度の調査区を決定。環状配石墓の範囲と性格を把握するため、これまで確認された遺構の補充調査に加え墓の北側を新たに発掘する。また、遺跡の全体像の解明を目指し、縄文前期末の竪穴住居跡が確認されている西盛土(もりど)を含めた遺跡西端部の調査を行う。



■ 県民、縄文文化に高い評価(2000.3.4夕刊)

写真  青森市の国史跡・三内丸山遺跡を見学した県政モニターの半数以上が、縄文文化に対して「自然と共生する生き方をしている」「高度な技術を持っている」と感じたことが、県が行った「縄文文化に対する県民意識について」のアンケートで分かった。同遺跡で力を入れてほしいことでは「道路標識や休憩所などの観光面の整備」を指摘する声が目立った。

 同アンケートは、縄文文化を生かした新しい文化の創造を考える際、三内丸山遺跡を活用していく参考にするため、昨年十一月に実施。県政モニター百九十九人のうち百六十五人が回答した。
 アンケートによると、同遺跡を見学したことがあるのは百六人(六四・二%)で、このうちの五五・七%が再び足を運んでいる。

 見学後に抱いた縄文文化に対する印象は「自然と共生する生き方をしている」が最も多く、「高度な技術を持っている」「豊かな自然に囲まれている」「現代人が見習う点がある」の順だった。
 遺跡内の展示室については「博物館のような本格的な施設が必要」が約七割を占めた。展示施設にほしい特徴としては「楽しめる体験や工夫された展示」(六七・五%)、「県内や全国の遺跡の情報が分かる」(五○・九%)「観光の拠点」(四○・五%)などが挙がった。

 県が今後、力を注いでほしいことには「道路標識や休憩所など、観光施設としての整備」「建物の復元」などを求める声が多かった。このほか「県外への宣伝」「調査、研究の充実」「遺跡でのイベントの開催」も目立った。
 自由意見では「資料室の貧弱さが残念。観光を活発化させるために、博物館並みの立派な施設を整備することが必要」、「郷土館や棟方志功館、文学館などを結ぶ巡回バスを運行しては」、「いくらか入場料を払ってもらい、施設整備に使う」、「県外へのPR不足。全県的な観光とのタイアップが足りない」などが寄せられた。



■ 東京でシンポ、5年間の成果検証(99.12.8)

 三内丸山遺跡(青森市)の保存決定後、平成7年から始まった本格調査。多くの発見があり、新たな学説が考古学会を揺るがせた。5日、東京で開かれたシンポジウム「検証三内丸山遺跡」(県、県教委主催)では、同遺跡に深くかかわる第一線の研究者たちが、この5年間の成果を振り返った。(社会部・高木圭一記者)

 ◇

佐原真・国立歴史民俗博物館長 五年間で多くのことが分かった。
岡村道雄・文化庁主任文化財調査官 今までの考古学は、土器の文様や形の違いから約百年の幅で「同時代」を認識してきた。しかし、三内丸山の研究で土器の細かい違いが判明、百年が三つぐらいに分かれた。三十年という一世代の時間幅が見えた点は画期的。ある住居区域をみると、同時朝の住居が十八−二十軒あった。四つの区域があるので八十軒。一家族五人として約四百人は住んでいただろうことが、考古学的に言える。これは大変な数。関東の縄文遺跡の普通のムラで、いいとこ二十−三十人だから。
辻誠一郎・国立歴史民俗博物館助教授 三内丸山の木炭で高精度の時代測定をしたら、上器の形式ごとの時代の長さがきれいに出た。一形式=百年ではなく、やはり数十年だった。
岡村 この測定法の登場も非常に大事。従来の「今から何年前」という学説は誤差が大きくて通用しない時期に来ている。一回どこかで、年代を変える「儀式」をしなければ。

 ◆

佐原 三内丸山での新発見により、従来の「縄文は採集、弥生が栽培」という見方も変わってきた。  もともとプナ林だった三内丸山。人々が居住を始めて短期間のうちに、オニグルミを経て急速にクリ林になってしまう。縄文人はクリの下章を刈ったり枝を打つなど、手間暇かけて接した。植物がヒト社会とうまくかかわり、共に長く存続するためにはどうすベきか−という観点を持っていた。農薬などに見られる現在の植物とのかかわり方と同義ではない。
佐原 東西に続く道沿いの列状墓と、南北に統く環状配石(ストーンサークル)を伴う墓は、作られた時期が重なる。ただ埋めてもらった人と、石を並べられた人という埋葬の違い。
岡田康博・県教育庁三内丸山遺跡対策室主幹 階層社会だったと考えると説明がつき、素直に理解できる。単純に見ても環状配石を伴う墓の方が大きくて立派だ。
 ただし、使われた材料は同じ。普段は階層の上下が見えず、まつりの時などに見えるようなものだったのでは。
佐原 緩やかな階層ということか。
岡村 人々から見えるようなムラの奥まった場所にある。配石の直径は四・ニメートルでそろい、縄文尺のような何らかの社会的規制に合わせている。周辺のムラを統合して三内丸山が大きくなる時期、組織するリーダーがいたのでは。

 ◆

佐原 縄文時代を現代に結び付けて考えてみる。
岡田 東北に暮らす者として、縄文から受け継いだたくさんの伝統を、きちんと見ていくこと。縄文人の世界観、宇宙観を考える必要がある。
 生態系をあれだけ長く維持することは大変なこと。地球環境が脅かされている現在、「持続可能な社会」の在り方が問われている。縄文文化は見直されなくちやいけない。
佐原 生物の本能とは、「遺伝学的にプログラムされているもの」だという。虫はひとりでに大人になるが、人間の場合は、集団の中で老若男女いろんな種類の人間の言動を見て、いいこと悪いことを知りながら大人になる。
 核家族、一人っ子、自然との付き合い方を知らない現代の子どもたち。「人間の遺伝的プログラム」から、外れてきているのではないか。
 縄文文化の解明により、「本来の人間として生きるということ」を教わっているのかもしれない。



■ 東京で「三内丸山縄文シンポ'99」(99.12.6)

写真  「縄文時代は緩やかな階層社会?」「大集落が突然終わりを迎えた原因は、気候か人間社会の変化か」−。三内丸山遺跡(青森市)の保存決定後の平成七年から今年までの五年間に進められた、発掘調査や研究の成果を振り返る「三内丸山遺跡・縄文シンポジウム'99」(県、県教委主催)が五日、東京・有楽町朝日ホールで開かれた。全国から詰め掛けた約五百七十人が、パネルディスカッションを通じて、五千年前に生きた縄文人の世界観に思いをはせた。

 「検証・三内丸山遺跡」と銘打ったディスカッションは、国立歴史民俗博物館の佐原真館長が進行役を務め、文化庁の岡村道雄主任文化財調査官、同博物館の辻誠一郎助教授、県文化課三内丸山遺跡対策室の岡田康博主幹が、それぞれ現場での調査研究を踏まえた持論を展開した。

 佐原館長は、集落の西側と東側で同じ時期に造られた墓の列が出土しているが、西側の墓列だけが環状配石(ストーンサークル)を伴っており、埋葬方法に大きな違いがみられることを指摘。
 岡田主幹は「階層社会があったと考えれば素直に理解できる。普段の生活ではそれほど意識せず、まつりごとの時だけ意識する”緩やかな階層”だったのではないか」と説明、岡村調査官も「(西側の墓の方が)一人分の面積が広く、人目に付く場所にある。周辺のムラを統合して三内丸山が規模を大きくする時期に、組織のリーダーがいたと思われる」と語った。
 長期にわたる大集落の繁栄が突然終わった理由について、辻助教授は「気候が寒冷化したとの説もあるが、植物は多少の温度変化にも適応可能。人間の側が、クリの管理栽培に力を入れなくなる理由があったのではないか」と指摘した。

 ディスカッションに先立ち、同遺跡対策室の秦光次郎主事が本年度発見した環状列石墓や土木工事による道路跡などについて解説したほか、小笠原雅行主事が「盛り土と土偶」、斎藤岳主査が「石器から見た交流の様子」について語った。




■ 三内丸山の整備検討委が方針報告(99.12.3)

写真  三内丸山遺跡を活用した公園整備の在り方を検討している県総合運動公園遺跡ゾーン整備検討委員会(委員長・平野侃三東京農大教授)が二日、青森市の青森グランドホテルで開かれ、遺跡入り口付近に建設する総合施設「公園センター(仮称)」の模型が公表された。

 公園センターは、現在は仮設施設で営業している遺物などの展示場や体験工房、ボランティアガイド受け付けなどを集約した施設で、見学者を迎える遺跡の玄関部分となる。県は本年度中に設計を終え、十二年度着工、十四年度開業を目指している。
 委員会では、県と担当委員らが同センターのイメージ模型を示しながら、展示方針などを説明。映像などを駆使した遺跡概要のほか、土器などのレプリカに触って体感できるような展示とする基本構想を報告した。
 また、集落復元の前提として行っている竪穴住居の建築実験や、植生の復元調査の状況も報告され、今後、十三年度から予定されている本格復元に向けて、調査を進めていくことなどを確認した。

※写真は三内丸山遺跡入り口に建設される公園センターの模型



■ 東京で12月5日「三内丸山縄文シンポ」(99.11.29)

 県と県教委主催の「三内丸山遺跡・縄文シンポジウム'99」が十二月五日午前十時半から、東京都の有楽町朝日ホールで開かれる。今回は、同遺跡が保存決定となってから現在までの五年間に進められた、発掘調査や研究について総合的に振り返る構成。

 第一部は発掘調査の報告。県教育庁文化課三内丸山遺跡対策室の秦光次郎主事が、本年度発見した環状列石墓や日時計型の組み石、土木工事による道路跡などについて解説する。
 第二部で同対策室の小笠原雅行主事が「盛り土と土偶」について、斎藤岳主査が「石器から見た交流の様子」について話題提供。また、岡田康博主幹が「五年間の調査と研究成果のまとめ」と題して総括的に解説する。
 第三部は「検証・三内丸山遺跡」と銘打ってのパネルディスカッション。国立歴史民俗博物館の佐原真館長をコーディネーターに、文化庁の岡村道雄主任文化財調査官、同博物館の辻誠一郎助教授、岡田主幹が自由な議論を繰り広げる。

 入場は無料。問い合わせは同遺跡対策室(電話0177-14-9924)へ。




■ 三内丸山の住居本格復元へ検証(99.11.11)

写真  青森市の三内丸山遺跡に実験的に復元された竪穴住居で、”住み心地”や縄文人の寒さ対策の調査が十日から始まった。調査は県が進めているもので、十二日までの三日間、住居内でたき火をした場合の温度変化などから、住居の保温性や当時の生活を検証する。初日は「県総合運動公園遺跡ゾーン整検討委員会」のメンバーも現地を訪れ、復元状況などを視察した。

 県は、同ゾーン整備の一環として遺跡南東部に竪穴住居十一棟を復元する計画で、今回の復元実験は本格復元の試験調査。縄文時代に使ったと想定される素材と道具で、かやぶき、樹皮ぶき、土ぶきの三棟が既に復元されており、今後約一年がかりで、当時の技術や生活、自然への耐性などを検証する。
 初日は、住居内でたき火をして乾燥させた後、午後六時から本格的な調査を始めた。住居の内外に温度センサーと湿度センサーを設置しており、コンピューターで気温と湿度の変化を解析する仕組み。十一日以降は夜通し火を使った場合や消火後のデータも計測する。

 視察した同委員会集落復元専門部会の村越潔部会長は「火は煮炊きや暖房のため使用していたと考えられ、たき火による温度変化は住居構造や生活ぶりを検証するヒントとなる」と話していた。同部会は復元状況やデータを十二月の同委員会全体会で報告し、今後の整備に反映させる。

※写真は復元された竪穴住居で火をたき、実験を始めた関係者



■ 江坂慶大名誉教授「木製遺物は縄文初の木棺墓」(99.10.19)

 六日に青森市三内丸山遺跡の環状配石墓(ストーンサークル)から出土した縄文中期半ばの木製遺物(約四千五百年前)は、縄文初の「木棺墓」でほぼ決着する見通しとなった。同遺跡発掘調査委員会顧問で縄文研究の権威として知られる江坂輝弥・慶応大名誉教授が十八日、同遺跡を視察し「木棺の一部と考えられる」と分析した。国内最古の出土例となるわけで、木棺墓の出現は弥生時代以降−とされるこれまでの定説を二千年以上さかのぼることになる。

 江坂教授は県教委三内丸山遺跡対策室の招きで来青した。七基ある環状配石墓のうち、最も南にある配石墓から見つかった木製遺物を前に、江坂教授は「自分が知る限り、縄文では初の出土例だろう」と説明。「断定できないが、木製遺物はまっすぐ立っているので木棺の一部だと思う。遺体の頭部分の奥壁に当たるのではないか。全体の構造としては、割った板状の木を重ねて壁のようにしていたことが考えられる。板材かゴザのようなものでふたをしていた可能性がある」とした。

 さらに、こうした丁寧な造りの墓が存在した背景に階層化社会があった可能性に言及。「同じ遺跡内にストーンサークルのほか、土を盛っただけのもの、子供専用−といろんな形の墓が存在する。ということは、階層的違いがあったとみていいだろう」と語った。

 木製遺物は墓の内部に張られた板材−とする見解には多くが同意。国学院大の小林逹雄教授は「木棺墓の芽生えの時期のもの」、国立歴史民俗博物館の佐原真館長は「『棺』と呼べるかどうか分からないが、板のような木を壁のように張り巡らした特殊な墓」としている。

 これまで、県内外の遺跡の土坑墓を取り囲む溝からは炭化物が見つかっていた。このため「縄文時代に木棺墓はあっただろう」と存在は指摘されていたが、決め手となる板材が出土していなかった。




■ 「縄文初の木張り土坑墓」と佐原氏(99.10.14)

 考古学会の第一人者として知られる佐原真・国立歴史民俗博物館長が十三日、青森市の三内丸山遺跡を視察。環状配石墓(ストーンサークル)の下から見つかり、縄文初の「木棺墓」の一部の可能性が高いとみられている木製遺物(十五センチ×十センチ)について「墓の内側に張り巡らしていた木材の一部と考えられる。縄文時代としては初の出土例だろう」と指摘。「木棺墓」との明言は避けたものの、木張りの特殊な墓−との見解を示した。

 木製遺物は七基の環状配石墓のうち、南端部の配石墓の下層の土坑墓(二メートル×一メートル)から六日に見つかった。出土地点が土坑墓を取り囲むように掘られた溝の上であることや、差し込まれるような形で出土したことから「『木棺墓』の一部ではないか」(関係者)との声が上がっていた。時代は縄文中期半ば(約四千五百年前)とみられる。

 現地で木製遺物を確認した佐原館長は「溝の状況などからみて、何枚もの板のような木を、墓の内部に壁のように巡らしていたのだろう。遺体を大切にする縄文人の精神がよく分かる貴重な遺物だ」と分析。さらに、「これまで知られていない構造で興味深い。縄文時代では他に例がなく、初の出土ではないか」と考古学的意義の高さについてあらためて評価した。

 墓の内壁に板を張り巡らすという構造は、縄文中期末(約四千年前)に出現する石棺墓と似ている。このため、「木棺墓」説が浮上。国学院大の小林逹雄教授は木棺墓の芽生えの時期のもの−としている。この点について、佐原館長は「現代人の感覚では、一枚板でできて運べるものを『棺』と呼ぶ。三内丸山の場合は、事前に掘って木を回した穴に遺体を運び入れている。これを『木棺』と呼ぶかどうかは、『棺』の定義次第だ」とした。

 発掘調査に当たる県教委三内丸山遺跡対策室の岡田康博主幹は「配石を伴う上に板状の木で囲まれたとすれば、祭祀(し)などをつかさどる特別な人が埋葬されたと考えられる」と話している。

 木製遺物についてはストーンサークルと並んで、縄文時代に階層社会が存在していたことを裏付ける貴重な資料として考古学会の注目を集めている。




■ 縄文初の木棺墓か、板状遺物出土(99.10.7)

 ムラ長(おさ=リーダー)の墓として話題を呼んだ青森市三内丸山遺跡の環状配石墓(ストーンサークル)の下から、新たに板状の木製遺物が見つかった。出土した状況から、墓の周囲に板材を張り付けた「木棺墓」の一部である可能性が高く、県教委三内丸山遺跡対策室は確認を急いでいる。一般的に、木棺墓が出土するのは弥生・古墳時代以降で、この木製遺物が木棺墓と特定できれば、縄文初の出土例となる。縄文時代の墓に詳しい専門家は「特別な人に対して行った再葬の儀式とも関係するのではないか。墓制変遷を研究する上で貴重な資料だ」と話している。

 木製遺物が見つかったのは、昨秋から今夏にかけて見つかった七基のうち、最も南に位置するストーンサークル(直径四・二メートル)。長さ約二メートル、幅一メートルのだ円形の土坑墓の壁に張り付けたような形で出土した。
 大きさは十五センチ×十センチ程度で、他の部分は腐食したとみられる。出土地点が土坑墓の周りに掘られた溝の上であることや、土中に立つような形で見つかったことから「木棺墓の一部の可能性が高く、木製のふたがあったことも考えられる」(考古専門家)。時代はストーンサークルと同じ中期半ば(約四千五百年前)。

 土坑墓を取り囲む溝状の遺構については、これまでも、同遺跡や六ケ所村・富ノ沢など県内外の縄文遺跡から見つかっている。このため、考古学者の間では「縄文時代に木棺墓はあっただろう」と存在が指摘されていたが、”証拠”となる板材が出土しないため、推測の域を出なかった。
 木棺墓の類似例としては、土坑墓の壁に板状の石を張り付ける石棺墓がある。しかし、これは主に出土するのが縄文後期(四千−三千年前)以降で、三内丸山に比べて時代が少し下る。

 青森市文化財審議委員で縄文時代の墓制に詳しい青森短大の葛西励助教授(考古学)は「石棺墓が生まれるのは縄文中期末−後期初め(約四千年前)だが、似たような遺構が三内丸山の時代にあってもおかしくない。地理的に板状の石を手に入れるのが難しいため、板材で代用した可能性がある」と説明。「木棺墓は石棺墓と同様に、再葬のために一時、遺体を納めた場所と考えられる。ストーンサークルは掘り返す場合の格好の目印となったのではないか。いずれにしても、特別な人の墓だったのは確かだ」としている。


三内丸山遺跡 INDEX

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