概要 三内丸山遺跡
「縄文」変えた巨大集落 三内丸山遺跡


■ 保存、活用への経緯

全景 上空から見た三内丸山。縄文海進によって縄文前−中期にはもっと陸奥湾が遺跡近くまで迫っていたと考えられる。復元した6本柱建物や大型住居、展示室などが立ち並ぶ
 青森市の三内丸山遺跡は、市中心部から南西へ約3キロの丘陵地帯にある。
 1992年度から青森県総合運動公園の拡張に伴う新県営野球場建設用地約5ヘクタールの発掘調査が始まっていた。だが調査はあくまでも遺跡の記録保存が目的だった。
 三内丸山遺跡が破壊の危機に瀕していた発掘調査最終年度の94年、東奥日報は7月16日朝刊1面で「国内最大の縄文集落」として遺跡を報道した。
  1. 直径80センチの木柱が新たに出土したのをはじめ大型建造物が多数建てられていた
  2. 大量の遺物、遺構から縄文時代前期の5500年前から中期の4000年前までの約1500年間にわたり定住生活をしていた
−など、三内丸山遺跡はこれまで移動・狩猟生活をしていたという縄文人の歴史的常識を根底から覆す遺跡であることを県民に伝えた。
 続けて遺跡に隣接するW杯サッカー場建設予定地も一体的な遺跡であることを訴え、7月19日朝刊から「縄文の巨大村」と題して3回の緊急企画を掲載して同遺跡の学術的価値の高さを紹介。「後世に残すべき国民的遺産であり、野球場の工事中止、他の土地への移転を」とキャンペーンを展開した。さらに緊急県民アンケートを実施し、スポーツ施設よりは遺跡保存を望む県民が圧倒的に多いことを明らかにした。
 全県的な保存機運が高まっていく中、当時の北村知事は7月26日に「遺跡保存−野球場移転」を決断。12月にはサッカー場も移転し、遺跡一帯38ヘクタールを保存区域とすることが決まった。
 東奥日報社は同年中に、三内丸山遺跡・縄文フォーラムを2回実施したほか、写真グラフを発行、「三内丸山遺跡を21世紀に残す会」を設立して募金活動を県内外で幅広く行い、同遺跡に対する県民世論を盛り上げた。
 青森県には、亀ケ岡遺跡(木造町)や是川遺跡(八戸市)など、縄文晩期の日本を代表する、高い文化を示す遺跡が多い。弥生時代の稲作を示す水田跡が発見された垂柳遺跡(田舎館)、全国でも珍しい中世の港町遺跡・十三湊遺跡(市浦村)なども存在する。しかし、このように学術的価値が高い遺跡が多いのにもかかわらず、発掘調査は財政難や人材不足が壁となり、地域開発に伴う事前の緊急調査がほとんどだった。
 東奥日報社は三内丸山遺跡の出現を機に、埋蔵文化財と開発との関係、埋蔵文化財行政、さらに保存・活用の在り方を改めて問い直すべきとの観点から報道に取り組んだ。そして


見学 「縄文最大の集落見つかる」のニュースに連日、多くの見物客が訪れ、遺跡は混雑を極めた。彼らの熱意が遺跡保存に結び付いたともいえる=1994年11月
  1. あくまでも遺跡の学術的価値を第一にすべき
  2. 開発を優先させるあまり、遺跡の価値的事実を伏せてはいけない
  3. 発見を公にし、県民の声を聞いて保存すべきものは保存すべき
  4. さらには、それをどう生かすか、行政を含めた県民全体で意見を出し合うことが大切
−と考え、2度にわたり同遺跡の活用・保存方法について県民アンケートを行った。
 県行政はこれらの積極的な報道を受けて、三内丸山遺跡を保存、県営野球場の建設中止・移転の決断した。正式決定は94年8月1日だが、この時点で既に工事は野球場の三塁側スタンドはほぼ完成し、一塁側スタンドも建設途中だった。大規模な公共工事を途中で中止し、遺跡保存を優先させた例は全国に先駆けたものだった。
 建設現場サイドから抵抗があったにもかかわらず、大きな政治決断が行われた背景には、一連の報道による県民世論の盛り上がりがあった。報道後、県内外から訪れた見学者が爆発的に増え、口々に「これだけの遺跡を保存しなかったら、青森県は末代までの恥を負うことになったろう」と訴えた。
 一連の遺跡報道に接した読者からは「縄文文化は弥生文化の風下に置かれていたが、全く違うことが分かった」「本州北端に日本を代表する遺跡があることで勇気がわいてきた」などの声が相次いだ。ある高絞生の「中央からみれば歴史的には不毛の土地だが、私たちの祖先はかつて日本の中心地を築いた。今を生きるわれわれも頑張らなければならない」との言葉が、県民の心を端的に表している。


■ 驚くべき出土品群
柱穴 6本柱建物の出土のニュースは全国を駆け巡った。左手前が直径103センチの柱根が見つかった穴=1994年12月
 三内丸山遺跡から出土した日本最古級の木製漆器の数々について鈴木公雄慶応大教授は「食生活に直接関係のないぜいたく品に、これだけの技術、手間を掛けられる文化というのは、いったいどういうものか」と驚嘆している。これらの漆器が5500年もの間、崩壊せずに眠っていたのが遺跡の北西の第六鉄塔付近と、北の谷にある縄文前期の泥炭層だ。
 泥炭層は植物が腐りきらないまま炭化し、たい積したもの。空気から遮断されるため、たくさんの動植物遺体がそのまま保存される。例えば大量に出土している骨角器。普通、骨角器の多くは貝塚で発見され、表面にカルシウム分が白く付着しているのに対して、三内丸山の泥炭層から見つかる骨角器は縄文人が使っていた当時そのまま。その生々しさに、文化庁の岡村道雄主任文化財調査官は「使用した跡まで見える。骨角器の研究をするなら三内丸山から始めたほうがいい」と、賛辞を惜しまない。
 第六鉄塔、北の谷ともに三内丸山びとがごみ捨て場に使っていた場所。だから、大量の土器、漆器をはじめとする木製品などの道具類のほか、魚の骨などの食べかすまでが埋まっている。それらがそっくり残されているのだから、縄文人の生活を再現するのに、これほど好都合な遺跡はない。三内丸山びとにとってはごみ捨て場でも、現代の考古学者には“宝物庫”だ。
 最近、福井県鳥浜貝塚遺跡、小樽市忍路土場遺跡、富山県桜町遺跡など泥炭層を持つ遺跡の発掘が相次ぎ、木製品などの出土が話題を呼んでいる。しかし、それらの遺跡では住居跡など生活の場がほとんど見つかっていない。三内丸山のように、巨大な集落が発掘され、大面積の泥炭層が出てきたのは全図でも初めてだ。
 山田昌久明治大助教授が「ここでは泥炭層から出た木製品が実際にどう使われていたか、集落構造などと合わせて総合的に判断できる」と評価するように、三内丸山は縄文時代に関する総合的情報源といえる。
 なかでも注目を集めているのが、泥炭層に含まれる植物の種子や花粉など。県埋蔵文化財調査センターでは、泥炭層の土をすべて回収し、細かい網でこし、水で洗い、極めて細かい植物性遺物も選び出す研究法を採っている。どんな植物がどこの土にどれだけ入っていたかを分析することで、当時の気候や季節変化などの自然環境が分かるほか、三内丸山びとが何の植物を食べていたのか具体的に知ることができるからだ。
 これまでにトチ、クルミ、クリなどの堅果類、ニワトコ、サルナシ、ヤマグワ、ヤマブドウ、キイチゴなどの種子が見つかっている。ニワトコなどは、果実が自然発酵しやすいことなどから、三内丸山びとは果実酒を造っていたと考えられている。
6本柱 5000年前の三内丸山で、6本柱建物は何を見たのか。その全容が解明されようとしている
 冒頭に書いた漆器に関して、鈴木教授は「漆器の起源は縄文期の東日本ではないか。植物資源利用が相当古い段階から進んでいたようだ」と指摘している。それから考えると、三内丸山びとたちは採集よりも高度な植物利用、つまり栽培の可能性も十分にありうる。三内丸山のウルシについては、DNA研究で知られる佐藤洋一郎静岡大助教授が中国種などと比較。99年3月に「日本独自のものである可能性が高い」と発表、漆の起源は中国―としてきたこれまでの定説に疑問を投げ掛けた。
 また、リョクトウ(緑豆)、シソ(あるいは変種のエゴマ)とみられる種子が見つかり、鑑定を急いでいる。縄文時代のリョクトウやシソが栽培種かどうかは学説が定まっていないが、栽培の可能性が高い植物がこうも次々と出て来ると、単に周辺に生える植物を採ってきて利用したとは思えない。
 話題となったヒョウタンの種子は、これを強く裏付ける。ヒョウタンは世界最古の栽培植物の一つで、縄文前期より以前としては三内丸山が世界最北の出土例。日当たりの良い場所に植えるなど管理をしないと育ちにくいことから、三内丸山のヒョウタンも意図的に植え、栽培管理をしていたとみられる。
 三内丸山びとの主食の一つだったと考えられるクリついては、佐藤静岡大助教授がDNA分析の結果、「栽培されていたとみられる」との見解を示している。また、辻誠一郎国立歴史民俗博物館助教授はクリ林を軸にした壮大な自然管理システムが存在した可能性に言及している。


■ 進む海外との関連研究

環状列石 1999年7月には三内丸山のストーンサークル内から首長のものとみられる土坑墓が2基出土。これまで平等と考えられていた縄文社会には階層が存在し、しかも首長クラスは世襲されていた可能性があることが分かった。左から3人目が発掘責任者の岡田康博・県教委三内丸山遺跡対策室主幹、4人目は発掘調査委員長の村越潔・青森大考古研究所所長
 栽培とくれば、次の段階は農耕。24年前に故藤森栄一氏(当時、長野県考古学会長)が主張した「縄文農耕説」は、縄文中期に焼き畑農耕があったとするもの。この説は必ずしも旗色がよいとは言えないが、同説の検証のために縄文研究は長足の進歩を遂げたといわれる。
 例えば、シソ、アワなど小さくて紛らわしい種子を電子顕微鏡を使って検定する方法など。三内丸山でもこうした自然科学的な手法を大幅に採り入れ、泥炭層などの植物性遺物の分析が行われている。
 植物細胞に含まれ、土中などに半永久的に残るプラント・オパール(植物ケイ酸体)を調べる研究も、藤原宏志宮崎大教授によって進められている。プラント・オパールは特にイネ科植物に多く含まれている。つまり、究極の狙いは稲の発見だ。
 藤原教授はごく最近、岡山県内の遺跡から縄文後期中ごろ(約3500年前)の稲を見つけ、稲作の歴史を大きく塗り替えた。縄文農耕説がなかなか支持を得られない一方、こうした発見により「米を食べる弥生人が原日本人で、米を食べない縄文人は征服された先住民」という戦前からの誤った固定観念が、ようやく崩れようとしている。
 三内丸山では縄文中期、さらには前期の稲作を追求する。仮に稲作の痕跡が見つからないまま終わったとしても、研究過程で縄文人の等身大の生活が少しずつ解明され、「原始的」という縄文観は確実に塗り替えられるはずだ。
 一方で、三内丸山は北東アジアを視点にした海外調査にも踏み出し始めた。縄文文化はもはや日本列島という枠に縛られては理解できない―との考えからだ。国際的な視点からの縄文研究については、以前から山田東京都立大助教授が提唱していたるが、現在はその実践段階に入ろうとしている。
 具体的には、中国社会科学院考古研究所との共同発掘調査計画が浮上している。舞台となる遺跡は中国東北部内モンゴル自治区の興隆溝(こうりゅうこう)遺跡(7000年前)。同遺跡は興隆窪文化(8000−7000年前)に属する未発掘遺跡で、「けつ」※と呼ばれる輪型の耳飾りや円筒平底型の土器、列状に並ぶ住居跡など共通性が高い文化遺物が眠ると考えられている。発掘調査については現在、「許可待ち」の段階だが、実現すれば、中国東北部で調査を行う初の海外研究機関となる。東奥日報は青森県教委などと共同で共同発掘調査に当たる予定だ。

※「けつ」は決の“さんずい”が、“王へん”

三内丸山遺跡 INDEX

HOME