青春・異才・鬼才・清純の作家ら-青森県近代文学館

 青森県立美術館を訪ねた後は、県立近代文学館をのぞいてみてはいかがだろうか。私こと太宰治を含めて13人の軌跡が常設展示されている。青森への理解を深めるのに役立つだろう。いま少し専門的に研究してほしいのである。青春・異才・鬼才・清純に驚くだろう。「青森県人名辞典」(東奥日報社刊)を中心に紹介しよう。


 佐藤紅緑(1874-1949、弘前市)は少年小説の金字塔を築いた。「少年倶楽部」の連載「あゝ玉杯に花うけて」は少年読者らを熱狂させたのだ。人気劇作家ともなった。佐藤は古里の先輩で新聞人・陸羯南の玄関番になり師と仰いだ。陸は青森県の現在の代表紙「東奥日報」の前身の新聞である「青森新聞」の編集長を辞したのち、東京で新聞「日本」を発刊し明治の言論界で重きをなした。

 佐藤は「日本」に採用されていた正岡子規とも知り合う。紅緑は子規の命名という。童謡「小さい秋みつけた」、戦後の大ヒット曲「リンゴの歌」を作詞した詩人のサトウ・ハチローは長男、作家の愛子は末娘。劇作家、小説家、児童文学の秋田雨雀(1883-1962、黒石市)の紹介により口語自由詩の先駆者の一人である福士幸次郎(1889-1946、弘前市)を書生にする。


 福士の処女詩集「太陽の子」は詩人・萩原朔太郎に影響を与えたとされる。地元の東奥義塾講師に招かれ、後に「壁の花」で直木賞作家になる今官一(1909-1983、弘前市)ら生徒が刊行した雑誌に「わらはど」と命名して指導。今はその後、横光利一に師事。「海豹」を創刊し、太宰を同人に迎える。福士は高木恭造(1903-1987、青森市)に方言詩を勧めてもいる。高木は「まるめろ」を世に出し、方言詩朗読が内外で大人気となる。

 〓西善蔵(1887-1928、弘前市)は私小説「哀しき父」など。北畠八穂(1903-1982、青森市)は女流小説家。「鬼を飼うゴロ」で野間児童文学賞。子供たちの生命力をヒューマニズムの視点で描いた。
※〓西は、かさい。葛の下が人ではなくて、ヒの字。

 石坂洋次郎(1900-1986、弘前市)は小説家。「青い山脈」がベストセラーになり、何度も映画化された。「若い人」で三田文学賞、菊池寛賞。弘前や秋田・横手での教員生活がバックボーンとなった。「石中先生行状記」と、青春ものなど圧倒的に明るくユーモアのある作品が多い。青森は決して暗い作品ばかり生んできたのではないのだ。

 北村小松(1901-1964、八戸市)は脚本家、作家。モダンな映画「彼と東京」などの脚本を書き、戯曲集「猿から貰った柿の種」などで地位を確立。日本初の本格的オールトーキーの映画「マダムと女房」の脚本も。石坂とは慶応大文科予科の同期。


 寺山修司(1936-1983、弘前市)は俳句・短歌・詩・演劇・映画・写真・競馬評論・エッセーと、実に多方面に才能を発揮した。青森高校在学時に全国俳句大会を主催し、俳句雑誌「牧羊神」を創刊。「きらめく季節に/たれがあの帆を歌ったか/つかのまの僕に/過ぎてゆく時よ」から始まる詩集「われに五月を」は鮮烈。映画「書を捨て町に出よう」、国内外で公演した演劇実験室「天上桟敷」。時代の先頭を疾走し急逝した。鬼才・異才。先達の太宰を意識していたという。

 三浦哲郎(1931-2010、八戸市)は小説「忍ぶ川」で芥川賞受賞。「志乃をつれて、深川へいった。識(し)りあって、まだまもないころのことである。…」の印象的な書き出し。清冽、清純。とてつもなく、美しい作品だ。「できれば鮎のような姿の作品が書きたい。無駄な装飾のない、簡潔で、すっきりした作品」。清流に泳ぐ鮎のように。この一文に遭遇すれば、だれもが背筋を伸ばすに違いない。物書きの理想だ。「白夜を旅する人」で大仏次郎賞など受賞。短編の名手ともされた。日本芸術院会員。

 長部日出雄(1934-、弘前市)はフリーライターなどを経て小説家に。「津軽世去れ節」「津軽じょんから節」で直木賞。「鬼が来た-棟方志功伝」で芸術選奨文部大臣賞。「桜桃とキリスト もう一つの太宰治伝」で大佛次郎賞など。同書は太宰の作品生成過程や創作への挑戦、家族らを含めた生き様、師匠の井伏鱒二との関係、文壇のありようなど幅広く詳細に分析して記述し、極めて優れた太宰論の一書となっている。また、映画「夢の祭り」では監督をこなした。

 このほか、県近代文学館の常設展示とはなっていないものの、文芸評論家で日本芸術院会員の三浦雅士(1946-、弘前市)は「ユリイカ」編集長などを務めるなど精力的に活動。「メランコリーの水脈」でサントリー学芸賞、「青春の終焉」で芸術選奨文部科学大臣賞など。文芸評論の先陣を切って走り続けている。

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