青函連絡船から海峡線へ新幹線へ/「役目果たして」と葛西さん願う

 本州と北海道の間の津軽海峡は海流の早い難所である。青函連絡船は1908年3月7日、当時の帝国鉄道庁が「比羅夫丸」(1,480トン)を運航してスタート。北海道の開拓事業が本格化し、1891年には東北線上野-青森間が全通して、貨物量が増大していた背景があった。

 1924年5月21日には貨車が直接乗り込む「翔鳳丸」(3,460トン)が就航し、輸送効果が飛躍的に高まった。江戸時代からの北前船から、鉄道と連結した青函連絡船は全盛時代を迎えた。


 悲劇もあった。終戦1カ月前の1945年7月14日から15日にかけて、米軍の空襲を受け、全12隻が沈没・損傷し壊滅的な打撃を受けた。終戦後の54年9月26日、台風15号により「洞爺丸」(3,898トン)が北海道上磯町(現北斗市)沖で沈没し死者・行方不明1155人、ほかの沈没4隻と合せて1430人もが犠牲となったのだ。
 貨客は鉄道から航空機へ、トラック輸送のフェリーへと移り、一方で洞爺丸の惨事などを受け青函トンネルの建設が進んでいた。国鉄民営化で87年4月1日にJR北海道に移行していた青函連絡船は翌年88年3月13日の「八甲田丸」(8,318トン)と「羊蹄丸」(8,311トン)の運航を最後に、ちょうど80年の歴史を閉じることとなった。



 青函連絡船の機関長をしていた葛西鎌司(かさい・けんじ)さん(70)は、70年から88年まで勤務。八甲田丸のラストラン、青森港からの出航が最後の仕事となり「青函トンネルを列車が走ることは分かっていたが、考える余裕はなかった。とにかく、エンジン故障やトラブルがないよう函館港に着くことでいっぱいだった。先輩たちが80年運航してきた功績を汚さないように仕事を全うすることに懸命だった」と語る。

 葛西さんと八甲田丸の縁は深い。外国船に勤務していた64年4月、神戸港で新造船として内装仕上げをしていた八甲田丸に出合った。もっとも、その時は外国船と思ったという。その後、三等機関士として乗船し、機関長としてラストランに付き合い、メモリアルシップとなった現在は自身も退職してボランティアのガイドに。「普通の船ならスクラップされるのに、買い上げて保存してもらった。彼女との付き合いは50年余。船乗り冥利に尽きる。奇跡のようだ」という。


 一方、建設当時、世界最長だった青函トンネル(全長53.85キロメートル)は難工事の連続だった。本州側と北海道側の双方から掘削したが、湧水などに悩まされたのだ。先進導坑、作業坑、本坑、連絡誘導路が掘られた。「無用の長物」「昭和の三大馬鹿査定」とののしられながらも、83年1月27日午前時24分、19年の工事の末に先進導坑が貫通。本州と北海道は地続きになった。


 2年2カ月後の85年3月10日には本坑も貫通。海峡の水面下240メートルの青函トンネルはいよいよ運用開始実現へと歩を進め、3年後の88年3月13日に海峡線の一番列車が走った。青函連絡船廃止の日でもあった。現在、1日約50本の貨物列車が走り、物流の大動脈を担っている。

 2016年3月には新幹線が北海道に上陸する。東北新幹線新青森駅から北海道新幹線新函館北斗駅へとつながる。青函連絡船運航から108年後の開業だ。一時、噴出した青函トンネル不要論や新幹線建設凍結の大キャンペーンは、なんと浅薄な考えだったのだろうか。いまは無責任にも雲散霧消してしまったが、時代の先が見えなかったのだ。

 葛西さんは北海道新幹線開業について「青函連絡船は3時間50分、新幹線は1時間弱ですか。やはり、早いなあと感じます。大したものです。事故なく海底を走って、しっかり役目を果たしてほしい」と願う。新たな延伸・開業は北の青函エリアにどんな実りをもたらすのだろうか。


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