とうおう旅くらぶ
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海外旅行商品の最近のブログ記事

皆様 こんにちは

エジプトの総人口はおよそ7200万人ですが、そのうちの1600万人ほど、つまり約20%の方が、カイロ首都圏にて生活しております。

南のルクソールやアスワンなどと違い、人も車もごった返しています。

カイロ市内

カイロにはスークと呼ばれる市場があり、おみやげから、香辛料まで多彩なものが売られています。

ハンハリーリ・バザール

7世紀からエジプトを支配してきたのがイスラム勢力でした。
歴代のイスラム帝国の支配者が砦として使った場所をシタデル(要塞)とし、その中に、モハメド・アリ・モスクを建設しました。
1824年、モハメド・アリによって建設が開始され、息子のサイード・パシャの時代に完成しました。

モハメド・アリモスク

靴を脱いでモスクへ入ると、まばゆい光がモスク中に広がっています。

モスク内部  モスク内部

イスラム教は偶像崇拝をしませんから、内部はすっきりしていますが、天井の装飾が本当に美しいですね。

天井  内部

エジプトの旅の最後にご紹介するのは、スーフィーダンスです。
イスラム教の一派である「スーフィーズム」の信者たちが神との一体化を目指すためにさまざまな修行を行うのですが、その一つがスーフィーダンスと呼ばれるダンスです。
ぐるぐる旋回し続けることで、トランス状態となり、より神に近づけると考えたものです。

スーフィーダンス  スーフィーダンス


早過ぎて、写真のピントが合わないことをお許し下さいね。

エジプトの旅も無事に終了いたしました。
帰国した日、青森は雪景色でした。
2009年最後の青空はエジプトで見たように思います。
(すみません、この旅行記を綴るのがすっかり遅くなりました)
吹雪の日には、雪さえ降らなければ青森は最高に魅力的なのにと思うのですが、そういう時には「毎日、確実に春に向かっているんだよ」という父の声が聞こえます。

ご参加を賜りました皆様、お疲れ様でした。ありがとうございました。また、帰国後も「ハバキ脱ぎ(旅行反省会)」をしようと声を掛け合って下さり、写真交換会も開催させていただきました。
ご参加いただいた方のアンケートに「友達ができました」との声もいただきました。そういう事を伺いますと、そのような場面に立ち会うことができて本当に自分は恵まれていると感じます。

重ねまして、ありがとうございました。
  
                                                     小豆畑 理恵


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皆様 こんにちは

ルクソールからさらに南下しますと、エジプトの南端の町、アブシンベルに到着します。
アブシンベルと言えば、ラムセス2世の夢の跡、アブシンベル神殿。

2009年現在、文化遺産689、自然遺産176、複合遺産25、合計890のユネスコ世界遺産がありますが、世界遺産という世界共通の概念を作るきっかけとなったのが、このアブシンベル宮殿でした。
19世紀になり、イタリア人ベルツォーニによって発見され、発掘されるのですが、1954年当時のエジプト首相のアスワンハイダム計画により、水没の危機に瀕します。

そこで、ユネスコにより遺跡救済計画が立ち上がり、世界中の英知を結集し、1963年から5年の歳月をかけて、神殿を1036個のブロックに切り出し、約60m上方の丘の上へ移築させることに成功したのです。

ラムセス2世の4体の巨像に圧倒される神殿は、高さ約33メートル、幅約38メートル、そして奥行が約63メートルという巨大な宮殿です。

さらに、この神殿の一番奥に、太陽神ラー・ホルアクティ、神格化されたラムセス2世、王の守護神アメン・ラー、そして宇宙の創造神プタハの4体の神像があります。
この場所は神殿の奥にあるにもかかわらず、年に2度、ラムセス2世の誕生日である2月22日と彼の治世30年の祝典の日10月22日、地平線から昇った朝日が神々を照らします。

先人の英知にただただ驚嘆するばかりです。

神殿正面にも4体のラムセス2世の像がありますね。
左から2番目の上半身部分が崩れています。移築の際に修復することもできたそうなのですが、あえて現状の通りに移築したそうです。

4体のラムセス2世の顔を比べると、全く同じ顔ではありません。
左から20代、40代、60代、80代のラムセス2世の顔だそうですが、比べてみましょう。

→左・20代 

中央左は崩れています。

→中央右・60代

→右・80代 

では、神殿を背にナセル湖から昇る朝日をご覧ください。

アブシンベル神殿と愛妻ネフェルタリのために築かれた小神殿が朝日に照らされています。

  

アブシンベルでは音と光のショーを毎晩開催しております。
ライトアップされたアブシンベル神殿と小神殿もご覧ください。

  

次回は、カイロの町をご紹介しましょう。                     (あ)


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皆様 こんにちは


先日のブログ「ふのり」の章をご覧いただけましたか?

私も一度、ふのり採りに参加したことがありますが、楽しいですね!
ふのりは岩の上3センチほど伸びているものを指先だけでつまんで採ります。1時間ほど採取するのですが、時間があっという間に過ぎてしまいます。そして、お宿ではふのりを使ったお夕食を頂戴します。
ふのりの味噌汁はもちろんですが、ふのり天ぷら、ふのりとイカの塩辛に大根おろしを加え、貝の上で焼く、ふのり貝焼きも美味しいですね。
皆様もぜひ一度、ふのり採りへ参加されてみてはいかがでしょうか?

今年はあと1回ツアーの設定がありまして、まだ空席がありますよ。

さて、本日、ルクソールの「スフィンクス参道」が再建されるというニュースがありました。
ルクソールにはカルナック神殿という神殿とルクソール神殿という2つの神殿があり、その2つはかつて「スフィンクス参道」という一直線の道でつながっていました。

今はこんな感じです。

「スフィンクス参道」とは、かつて1350体のスフィンクスが並んでいた2700メートルの道のことです。

この道を再建させようという地元の声により、その参道の上に建っていた家々を撤去・移転させ、3000年以上前に作られた道を復興させようとする一大事業です。
これらの事業に約10億円のお金をかけるそうですよ。完成したら、素晴らしいでしょうね。

ルクソールは東岸と西岸に分かれております。
東は生ける者の都「アクロポリス」、そして西は死者の都「ネクロポリス」と呼ばれていました。

今日は前者のカルナック神殿やルクソール神殿のある、東岸をご案内しましょう。

カイロからルクソールまでは670km。青森=東京間とほぼ同じ距離です。
でも、一番大きく違うのは雰囲気。
ルクソールはのんびりです。
北のカイロやアレクサンドリアは人も車も多く、渋滞もあって混沌としているのですが、南の方へ来るとこんな感じ。

神殿の入口もこんな感じ。倒れたスフィンクスか!と思いきや、寝坊すけのワンコ(もう、10時過ぎているのになぁ)。

では、カルナック神殿からご案内しましょう。
エジプト最大の神殿、それがカルナック神殿です。
カルナック神殿と一言でいいますが、実はこの神殿は複数の神殿複合体です。その中の一番大きなアメン大神殿は東京ドーム6.4個分の巨大な神殿です。

第1塔門を抜けると、第1中庭に出ます。

ラムセス2世の像の脇を通りますと、そこは大列柱室です。

  

134本の列柱の上部は花が咲いているような形、つまり開花式と呼ばれております。

ちなみに、この花はパピルスの花をかたどっているのですよ。
パピルスはよくエジプトで紙のように使われていましたが、これは和名でカミガヤツリと呼ばれる植物です。
私自身、日本でこの植物を見かけた事がないのですが、真っ直ぐなサトウキビで上の部分がススキの穂と想像いただけたらわかりやすいと思います。

中央通路に面している12本の列柱の高さは21メートル、他の列柱の高さは約13メートル。
美しいレリーフが残っています。

上部には3000年以上前のオリジナルの色が残っていました。

大列柱室を抜けると、2本のオベリスクが立っています。

ハトシェプスト女王のものとトトメス一世のものです。
左のオベリスクはハトシェプスト女王のお父様、トトメス一世のもので高さ21.8メートル。


右はハトシェプスト女王のオベリスクで高さ約30メートル、重さ380トン。
東大寺の大仏様とほぼ同じ重さです。

しかも、これをさらに南のアスワンからナイル川の氾濫時期に船で運んできたというのですから、驚きです。

神殿の建物から出たところに、フンコロガシの一種、スカラベの大石像が置かれています。

この像の周りを3回まわると願いが叶うとか...。皆、くるくる回っています。

さて、ルクソール神殿もご紹介しましょう。
この神殿は主にアメンヘテプ3世とラムセス2世の二人のファラオによって建造されました。
神殿の入口には1本のオベリスクが立っています。

高さ25メートルありますが、かつてこれは対になっていました。もう一本のオベリスクは1836年、フランスに贈られ、パリのコンコルド広場に立っています。

2体の座像はラムセス2世です。

座像の足元を横から見ると、二人の人物の間にレリーフがあるのが確認できますでしょうか?


下の部分がパピルス、上の部分は蓮になっています。
つまり、パピルスは下エジプト、蓮は上エジプトを表していますから、このファラオは上下エジプトの王であるという事を象徴しているわけです。

中に入るとツタンカーメン王と王妃の像が置かれています。

ツタンカーメンの戴冠式もこの神殿で行われたそうです。

さらに奥に進むと大列柱廊を通ります。

掃除の方たちものんびり。

この大列柱廊の壁にはさまざまなレリーフが彫られていますので、ご紹介しましょう。
「イナバウアー」と現地ガイドのゴマちゃんは呼んでいましたが、ダンスをする人たちの様子。

当時の農作物も彫られています。

神殿を出て、ちょっとナイル川を眺めてみましょう。

ナイル川

ホテルの私の部屋のベランダから撮ったルクソールの町の様子をご覧ください。

馬車が観光のお客様を乗せて走っています。

中央の塔はイスラム寺院の尖塔、ミナレットです。

イスラム教の人々は1日5回祈りを捧げます。
祈りの時間の前には、ミナレットにつけられたスピーカーから大音量のアザーンと呼ばれる「アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」の呼びかけが町に響きます。

1回目の早朝のお祈りの時間、まだまだ外は真っ暗です。5時前だったような気がします...ですから、エジプトを旅行すると、早寝早起が自然と身についてしまいます。

次回は、ルクソール西岸をご紹介しましょう。                              (あ)


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皆様こんにちは
外の気温はマイナス5℃。立春を過ぎたのになぁという天気の青森ですが、皆様はいかがお過ごしでいらっしゃいますか?
青森に住んでいると、春の訪れが本当に待ち遠しく感じますね。

さて、前回はエジプトのピラミッドをご紹介させていただきましたが、今日は地中海に面した街・アレキサンドリアの町をご紹介しましょう。
アレキサンドリアはマケドニア王国のアレキサンダー大王によって紀元前332年に建設された都市で、現在はエジプト第二の都市になっております。
では、アレキサンドリアへ向けて出発します。


と、その前に。
古代エジプトの「イケメン」ラムセス2世の巨像をご紹介しましょう。

ラムセス2世

どうです?この端正な御顔立ち。
頭にかぶっている冠は上下エジプトを治める者の冠である二重の冠となっています。
かつてエジプトは上エジプト(カミエジプト)と下エジプト(シモエジプト)に分かれておりました。上エジプトはナイル川の上流部分、つまりカイロからアスワン(南の方)までを指し、下エジプトとはナイル川の下流部分、つまりカイロからアレキサンドリアまでを指していました。それぞれ異なる文化が発展した後に統一されたため、古代エジプトでは王の称号の中に、上下エジプト王という名称が残ったそうです。

紀元前1270年ごろ即位し、67年間在位する「最も偉大なファラオ」と呼ばれる王がこのラムセス2世です。アブシンベル神殿を作ったのも彼なのですよ。
これから、エジプトをご紹介しますとラムセス2世の名前が上がってくると思いますよ。

では改めて、アレキサンドリアへ向けて出発します。
ギザから高速道路を通ります。

アレキサンドリアの町の中へ入ってきました。

まず、ポンペイの柱を見学します。

3世紀にローマの皇帝が建て、かつては400本もあったといわれる柱の最後の1本です。
ローマの時代に迫害を受けたキリスト教が、宗教として認められ、ローマの国教となる時、これら残りの柱を破壊しました。

  

高さ約27メートル、柱の前には1対のスフィンクスが置かれています。

次に訪れたのはカイトベイ要塞です。

ここはもともと、紀元前280年頃、ファロス島に建てられた巨大な灯台があった場所です。
当時の灯台は、大理石の三層構造で、全体の高さは120mあったと伝えられています。
そして30km先の沖合から、この灯台の明かりを確認することができたそうです。
しかし、度重なる地震などで損壊し、灯台はその機能を失うのですが、マムルーク朝に支配されていた15世紀ごろ、権力者であったカイトベイが、その灯台に使用された石材を再利用し建設されたのが、この要塞なのです。

内部にはモスクもありました。

  

要塞という割には、とてもエレガントな建物です。

窓から見える地中海の青が眩しいですね。

新国立アレキサンドリア博物館にも行きました。

海が近いせいか、海底から発見された遺物も展示されていました。

  

  

次回はルクソールをご紹介しましょう。

                                                           (あ)


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皆様 こんにちは
東京でも積雪があったという報道がありましたが、皆様、いかがお過ごしでいらっしゃいますか?
長らくブログの更新ができずにおりましたこと、申し訳ございませんでした。
私たち観光部員にとって1月は「熟考」の時期に当たります。
東奥日報社観光部では毎年「年間パンフレット」を作成しているのですが、その作成時期に当たりますのが1月なのです。

やっと出来上がりました!

この作業が終わりますと、ちょっと息がつける訳です...ほっ。

さて、今日からは、12月にご案内させていただきました、エジプトの様子をご紹介したいと思います。
ナビゲーターはギリシャ・南イタリアの旅を紹介させていただきました小豆畑です。

エジプト!といえば、昨年、県立美術館で開催されました「吉村作治の新発見!エジプト展」に足を運ばれた方も多かったと存じます。
そちらをご覧いただいてエジプトに更なる興味をもたれた方もいらっしゃるかもしれません。

これから、写真と紀行文で昨年の12月14日出発のエジプト周遊ハイライトを添乗させていただいた時の様子をご紹介します。

が、その前に。
皆様、エジプトの歴史の流れをご存じですか?
エジプトを実際に訪れて、素晴らしい建築物などを見ながら、歴史の説明をガイドから受けるのですが、歴史が長過ぎて、頭の中が混乱しそう!という声がよく聞こえてきます。

エジプトの歴史は紀元前3000年頃から始まります。時代も、初期王朝時代、古王国時代、第一中間期など時代区分だけでもクレオパトラの時代までで9つ、王朝は30を数え、首都も何度も変わっています。

ですから、ややこしいのも当然でして、先ほどのような悲鳴が聞こえるのも仕方ないのです。
ここで、私が添乗先で作った「エジプト早わかり」をご紹介します。

左の年表の右端に番号をふっていますが、これは地図上の番号と一致しています。

画像の上で左クリック  ←画像の上で左クリック!

「ねぇねぇ、これを作ったの」と現地ガイドのゴマちゃん(本名はエマードと言います)に見せたところ、「アズハタサ~ン、絵が下手ねぇ、はっはははっ」と大笑いされた芸術的センスの全くない年表と地図なのですが、何かの参考にしてくださいね。


ではまず、三大ピラミッドからご紹介しましょう。

親子三代のピラミッドだから、おじいちゃんのピラミッド(クフ王のピラミッド)が一番大きくて、お父さんのピラミッド(カフラー王のピラミッド)はおじいちゃんのモノより、ちょっと小さくて、息子のピラミッド(メンカウラー王)はお父さんのモノよりさらに小さいんです。左から、クフ王、カフラー王、メンカウラー王の順に並んでいます。

建造からすでに4500年も経っているのに、ほとんど崩れていません。

カフラー王のピラミッドをアップで見てみましょう。

上の部分がツルッとしてますでしょう?

これは化粧石というそうで石灰岩を使用していましたが、崩れ落ちたり、モスク建築のために用いられたりして、現在ではカフラー王のピラミッドにしか見ることができません。

ここで面白い例があります。

第一ピラミッドのクフ王のピラミッドの重さは600万トンだそうです。
ピンときませんが、もし、私たち日本人の体重が一律50キロだとすると、人口約1億2千万の日本人全員=ピラミッド1個の重さということになるんです。
クフ王のピラミッドの基礎部分の4角形の一辺は230メートル、オリジナルの高さは146メートル、重さは日本の総人口の重さとほぼ一緒。

そんな風に考えると、ピラミッドがいかに驚異的な建築物であるかがわかります。

 ピラミッドもちょっとした休憩場所ですね。

遠くから見るときれいな四角錐で、砂の上に浮かび上がる姿は幻想的でもあるのですが、ちょっとそばに寄ってみますと、ぼこぼこの階段状の建物なのです。

平均1立方メートルの石が201段積み上げられています

かつては、奴隷たちがこの建物を作ったという説がありましたが、現在は、農閑期の農民たちがアルバイトのように、ピラミッド作りという日雇い仕事に携わったという説が有力なようです。

ところで、ピラミッドにはかつてさまざまな建物が付随していました。これを、ピラミッド複合体またはピラミッド・コンプレックスと呼んでいます。
この複合体の主な建物には、ピラミッド(ファラオのお墓)と葬祭殿(亡くなったファラオの再生と復活を祈る神殿)そして、葬祭殿から延びる参道と入口の神殿。
その一つがスフィンクスです。

このスフィンクスもカフラー王のピラミッドを守るために作られたと考えられています。顔はカフラー王に似せて作ったという説もあるそうです。

スフィンクスの後ろ姿もどうぞ。

ピラミッドとスフィンクスを一度に見ることのできるビューポイントは、人で溢れていました。

ラクダも大忙しで、一度はラクダにのってみたいという方々のためにアルバイトをしていました。

ピラミッドにもいろいろな種類があります。

ダハシュールの屈折ピラミッド。
クフ王のお父さん、スネフェル王のピラミッドです。

サッカラの階段ピラミッド。
こちらは屈折ピラミッドよりさらに古いもので、ジェゼル王のピラミッドです。

ピラミッドの前に立つと、4500年前の古代エジプト人たちの技術と汗の結晶に畏敬の念でいっぱいになります。

次回は地中海に面した街・アレキサンドリアをご紹介しましょう。 


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皆様 こんにちは

寒~い朝でしたね。
この時期になると欠かせないものがいろいろありますが、私の社内での必需品はレッグウォーマーですね。レッグウォーマーとは膝までの長い靴下でくるぶしから先がないものですが、これが暖かくて、暖かくて、最高!


では、ポンペイをご紹介しましょう。

紀元79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が大噴火をおこし、山麓の町ポンペイは火山灰の下に埋もれてしまいました。大噴火の起こる17年前、この地で大地震があり、町は復興に熱意を燃やしている最中のことでした。この地震ももちろん火山活動の一つだったのですが、この時代にそういう概念はまだありませんでした。
紀元前8世紀ごろからの長い歴史を持ち、ワインと油の輸出で潤い、紀元前80年からローマの支配下で商業地、そしてローマ人たちの別荘地として栄えました。最盛期の人口は約2万人といわれ、そのうちの約2000人がこの噴火の犠牲になったのです。

そして時間とともに、ポンペイの存在は忘れ去られます。

再び、ポンペイが地上に姿を見せ始めるのは、18世紀のことですから、実に1700年もの間、この古代都市は眠り続けておりました。
町には碁盤の目のような道が敷かれ、一般の住宅の他、神殿や浴場、大衆酒場や娼館までありました。

ポンペイ遺跡をご案内する前に、ここから出土されたものを紹介しましょう。
これらの出土品はナポリにある考古学博物館に保管展示されております。

モザイク画の数々。

  

モザイクは床を飾るものが多く、犬のモザイクは玄関マットのように置かれ、「猛犬注意」との意味があったそうです。

青銅細工も素晴らしい。

2000年前、すでにサイコロがありました。

サイコロに細工して、八百長をやっていたことも確認されています。

鉄製の台所用品の数々。現代のものといっても遜色ないですね。

  

ガラス製品の数々。特に青ガラスの壺はカメオのような彫刻を施しています。

  

ではポンペイの街を訪れましょう。

ポンペイには何箇所か入口があり、私たちはマリーナ(海の)門から入ります。

ポンペイは港町でもありましたから、港に船が着くとこの門から入場することになったそうです。

入場すると、道は人の歩く歩道と、馬車道に分かれています。

歩道は一段高くなっており、道を渡るとき、雨が降っても着物の裾が濡れないように、飛び石がおかれています。

下の写真を目を凝らして見ますと、敷石と敷石との間に白い石が廃されているのが見えますでしょうか?これは、夜間の道路照明の役割をもっていました。

フォロと呼ばれる公共広場の様子です。

長さ142m、幅38mの広場は町の政治、経済、宗教の中心でありました。正面はポンペイの守護神・ジュピターの神殿の跡です。この神殿の建立は紀元前6世紀まで遡ります。

浴場へ入ってきました。

  

ローマの浴場は運動場やサウナを備えた古代の「スーパー銭湯」です。
中には脱衣所、冷浴室、温浴室、サウナがありました。もちろん、男女別です。内部は集中暖房になっておりました。

浴場を出ると、大衆酒場がありました。

  

カウンターの上部がボール状にくりぬかれ、そこにワインを入れ、販売していたそうです。

ポンペイ最大の個人邸宅、ファウノの家です。

  

床のモザイクも可愛らしいですね。

町の様子をご覧下さい。

  

ここでBIGなお知らせがございます。
今、国立西洋美術館にて開催されております「古代ローマ帝国の遺産 -栄光の都ローマと悲劇の街ポンペイ-」展が青森にやってきます!!
青森県立美術館にて2010年4月10日から6月13日まで巡回展示予定です。ナポリ考古学博物館に訪れた時、フレスコ画などで「東京に出張しています」というものが、ありました。素晴らしいローマの遺産を地元青森で見られるなど夢のようです。
ぜひ、この展示会に足を運び、私たちの想像を超える様々な技術をご覧いただきたいと存じます。

さて、今回のギリシャ・南イタリアの旅も無事終了いたしました。
ご参加いただきました皆様、お疲れ様でした。ありがとうございました。
東奥日報社観光部では旅行の最後に参加者の皆様にアンケートをお願いしておりますが、その中で、ある方が「大家族のようなツアーでした」と書かれておられました。
募集旅行ですから、昨日までは見ず知らずの他人同士が1つの団体として旅行するわけですが、弊社の旅行は初日から笑いに包まれています。津軽弁、南部弁が飛び交い、現地ガイドからは「町内会の旅行みたい」とよく言われます。これも、参加されるお客様が素晴らしいからだろうなぁと、いつも思います。
皆様方に近い将来、またお目にかかれます日を楽しみにしております。
それでは ciao ciao!                    
                                                  小豆畑 理恵


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皆様 こんにちは

昨日、私たち観光部が属する読者事業局の大忘年会が青森市内の中華料理店「三海龍」にて行われました。
三海龍の喬俊和(チャオ・ジンフ)料理長が、中国江蘇省で開かれた第1回国際中国料理青年調理師コンクールで最高賞の金賞を受賞されたのですが、その受賞対象となったお料理をいただけるということで、食いしんぼう小豆畑は意気揚揚と出かけました。
その、お料理の写真です。

お味の方は... とても繊細! 色遣いも美しい! 幸せでした。
海老もおいしかったなぁ。
私自身は「今年も一年、お疲れ様でした」の気分には、まだまだ遠いのですが、美味しい料理を同僚たちと頂ける機会は貴重です、もちろん会費制ですけれど(笑)


前置きが長くなってしまいました。

今日は南イタリアのアマルフィ海岸をご紹介しましょう。

映画でも有名になったアマルフィ海岸は地中海に面する切り立った断崖とエメラルドの海が複雑に入り組み、その美しさは世界一と言われています。大リゾート地として人気を博しているアマルフィですが、1997年にユネスコ世界遺産登録を受けて、日本での認知度も上がってきました。


   


10世紀、ここに都市国家が建設され、アマルフィはイタリアにおける地中海交易の中心地となり、ベネツィア、ピサ、ジェノヴァと並ぶ海運共和国として発展しました。
海から街への入口の一つ、マリーナ門の横には中世のイタリアから中東周辺までの貿易地図が描かれています。


街は急勾配の斜面に貼り付くように広がり、迷路のように道が延び、東方の香りを漂わせています。ここは、かつてイスラム文化の玄関口でもあったのです。ヨーロッパ、ビザンツ、イスラムなどひとつの様式にこだわらない複雑さがアマルフィの特徴です。

アマルフィのシンボル、アマルフィ大聖堂は中央の建物です。

10世紀にマンソーネ3世によって建てられた大聖堂の正式名称は聖アンドレア教会といい、漁師であり、キリストの十二使徒の一人であった聖アンドレアを祀っております。
聖堂の左には12世紀に建てられた鐘楼があります。今でも15分間隔で鐘が鳴らされています。

大聖堂に入ると、13世紀に建立された「天国の回廊」に出ます。イスラム様式の交差アーチが美しいですね。

1253年に作られた聖アンドレアのクリプト(地下聖堂)です。

   

大聖堂も荘厳な雰囲気を漂わせています。

   

大聖堂を出ると、伝統的な紙を売るお店も。

街を見下ろす高台の上には教会が建っています。街の安全を祈願しているようです。

   

アマルフィ海岸はサレルノ県に位置する40kmほどの海岸ですが、そこに、アマルフィをはじめとする魅力いっぱいの町が点在しています。そのうちの1つポジターノのそばにエメラルドの洞窟があります。
洞窟に入り、小舟に乗り換えます。

洞窟内部は水面下で外の海とつながっており、そこから光が差し込むことでエメラルド色に輝くわけです。水深10mほどの海底が船からはっきり見えます。

綺麗ですね。

   

次回はポンペイの遺跡をご紹介しましょう。                   (あ)


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皆様 こんにちは

12月に入り、寒い朝が続いておりますが、皆様、お元気にお過ごしでいらっしゃいますか?
風邪などお召しになっていませんか?
私は小さい頃から、「手を洗って、うがいしたの?」と呪文のように言われていました。大きくなり、車を運転するようになると、冬の朝は父から「ブラックアイスに気をつけて」といわれるのが日課になりました。わかっているし気をつけていますと、毎回思うのですが、それでも父は言わずにいられないようです。親ってありがたいですね。

さて、前回ギリシャの街々をご紹介して参りましたが、今日は南イタリアの小さな町、アルベロベッロとマテーラをご紹介しましょう。

「美しい森」というラテン語に由来する街、アルベロベッロはトゥルッリで有名な世界遺産都市です。
トゥルッリとは円錐型ドームの住宅のことで、南イタリア・プーリア州のムルジェ地方に分布している農家の建物です。トゥルッリは本来、田園に孤立して建つものなのですが、それが1430も集まって町を形成しているのがアルベロベッロなのです。

そもそもこの辺りは石灰岩や凝灰岩の層の上にあり、どこでもちょっと掘れば簡単に良質な石材がとれます。これをモルタルを使わずに空積みしたのがトゥルッリです。

  


15世紀の後半に当時この地方を統治していたナポリ王から、この土地を譲りうけたアックアヴィーバ伯爵が、森林伐採や穀物栽培のために、ここに農民の家族を呼び寄せ、共同体を作りました。
18世紀に入るとこの町は一層の発展を遂げるのですが、伯爵家にとって農民は伯爵家の富を成すための道具であり、農民が豊かな暮らしをすることはありませんでした。しかし、フランス革命の勃発により自由を求める気運が高まり1797年に自治の町となりました。

   

トゥルッリの特徴を挙げましょう。

・モルタルを使わず、支えも骨組みも利用せず石を積み上げただけの建物であること。

・この地域だけでとれる「キャンカッレ」という板状の石灰岩を7cmの厚さにし、屋根瓦として利用していること。

・壁の厚さが1~2mあることで、年間を通して内部の気温がほぼ一定であること。

・地下には貯水槽が作られていること。

・部屋の中を明るくし、害虫の侵入を防ぐため、漆喰が塗られていること。

・建物の頂上に「ピナクル」と呼ばれる小さな塔があること。

・屋根に石灰乳で描かれた災い除けのシンボルがあること。

下の写真の右奥の屋根には太陽とその太陽の中にIHSという文字が見えますか?
IHSはギリシャ語で「ジーザス」を意味するそうです。この他にもさまざまなシンボルが屋根に描かれています。

街ものんびり、玄関には花が飾られ、ネコも散歩しています。

  

次にマテーラをご紹介しましょう。 谷間に重なる洞窟住居群サッシです。

マテーラの歴史は新石器時代に始まっています。人々はカルスト台地の天然の洞窟を家として暮らしていました。

6世紀には北からやってきたランゴバルト族が交通の要衝であったこの地を占拠し、要塞化し、マテーラも都市化が進みました。

8・9世紀になると、イスラム教徒や偶像破壊主義者からの迫害を逃れたギリシャの修道僧たちがこの地にやって来て、岩窟住居を住処としたり、修道院としたりして、洞窟の用途がさらに広がっていったようです。

11世紀にはノルマン人が来て、都市としての機能を備えるようになると少しずつ洞窟住居は姿を消していきますが、バリザーノ地区とカヴェオーソ地区には都市化が訪れず、洞窟住居が点在していました。

16世紀には、ナポリ王国の支配のもとで商業や農業が繁栄し、人口も倍増します。しかしこの街の繁栄と人口急増の結果は、貧富の差を生むこととなり、裕福な人々は新しく生まれたピアーノ地区に住み、貧しい人々は岩窟に住むという社会構造ができました。
反宗教改革の追い風もあり、教会や修道院などが次々と建てられ、町は発展の一途を辿るのですが、岩窟住居には貧しい農民や労働者が住み続け、整備されない岩窟住居地区の居住環境は、ますます悪化し、どの家も大家族をかかえ、本来貯水槽や倉庫、家畜小屋として使われていた洞窟までもが住居として利用され、同じ一つの空間に大勢の家族が豚やロバ、ニワトリなどの家畜と一緒に暮らしていったのです。

マテーラの近くの村に流刑の身となって住んでいた画家であり作家でもあったカルロ・レーヴィの著書「キリストはエボリにとどまりぬ」でこの地が紹介されたことにより、イタリア全土に大きな反響を呼び、マテーラのサッシを「国の恥」とし、1952年に特別法が発布され、サッシ地区の住民が郊外の近代的な街へ強制的に移住させられました。

そして、サッシ地区は無人化してしまい、完全に廃墟と化してしまったのです。

しかし、近年、岩窟住居の歴史的遺産としての重要性が再認識され、無人のサッシ地区の荒廃をくい止めようと、住民を呼び戻そうとする動きが活発になり、文化活動や観光事業を促進し、住民を取り戻しつつあります。

そして1993年、「マテーラのサッシ」としてユネスコの世界遺産に登録されました。

この地が映画のロケ地として使われることも多く、日本でもキリストの受難を描いたメル・ギブソン監督の「パッション」という映画が公開されています。

洞窟は理屈抜きで聖なる空気を感じられるところだからでしょうか、岩窟住居の中には48の洞窟教会が建てられています。かつては貧しさの象徴とされていた岩窟住居も、現在は世界遺産ですから、1戸あたり3000万円以上すると伺いました。驚きですね。

次回はアマルフィ海岸をご紹介しましょう。                              (あ)


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皆様 こんにちは

地球の中心地、デルフィはいかがでしたでしょうか?
写真だけでは紹介しきれないのが、この地を取り巻く環境です。遠くに海を望み、周りは岩山だらけ。神聖な場所という雰囲気が溢れておりました。

今回はギリシャにおけるキリスト教の中心地ともいえるメテオラをご紹介しましょう。
メテオラを訪れる人々は、天空に向かう奇岩の頂上に建つ修道院を見上げ、崇高な信仰心を驚異とともに感ずることでしょう。

平地を車でドライブしていくと、前方にそそり立つ岩山が見えてきました。メテオラです。

にょき、にょきと400メートル以上の奇岩群の上に、修道院が建設されています。

この地に最初の隠遁者が訪れたのは9世紀のことだったそうです。この頃のギリシャはビザンチン時代後期およびトルコ時代でした。つまり、宗教的にはイスラム教だったわけです。宗教的迫害を受けたギリシャ正教の修道士にとって、祈りと瞑想に身を捧げるために、この地は最良の場所でした。彼らは岩山に自然にできた洞穴に住み、11世紀に入ると集団で修道生活を送るようになりました。そして時代とともに修行僧の数が増え、僧院が建てられるようになったのです。
最盛期の15世紀から16世紀には修道院の数も24を数えたそうですが、今日では5つの修道院にしか人が住んでいません。

今回は、これらの修道院のうち最大の修道院メガロ・メテオロン修道院と女子修道院・アギオス・ステファノス修道院を訪れました。

岩山の斜面に造られた道路をバスで登り、岩の頂上近くの駐車場に車を止めます。

昔は梯子や滑車を使い修道院に登ったそうですが、現在は岩山の斜面に造られた道路をバスで登ります。

既に岩山の上にいるにもかかわらず、最初は高さを感じられませんでしたが、修道院の方へ歩いていると自分が断崖絶壁の上にいることを実感します。

  

150段ほどの階段を上り、メガロ・メテオロン修道院に着き、中へ入りました。

写真の女性の服装に注目です。

ジーンズの上にスカートを着用しているのがわかりますか?
ここは伝統的な修道院です。ですから、女性のパンツスタイル、また露出の多い格好は禁止です。それで、修道院の入口で巻きスカートを借り、ズボンの上から着用しているんですよ。

左側に見えている青い布がスカートです。

修道院の中を見てみましょう。
実際その場に立ってみても、あまりの安定感に、これが岩山の頂上にあるなんて感じられません。

  

  

野良猫たちも修道生活を送っています。

  

ギリシャ正教会の礼拝堂の内部は写真撮影が禁止でしたので、ご紹介することができませんが、私たちが通常ヨーロッパで訪れるローマ・カトリックの教会とは異なる点がありました。

まず、キリスト像などの立体像がなく、壁の一面にイコンとよばれる聖像の絵が描かれていることが大きな違いです。

礼拝所の内部は、3つにわかれています。入口から入場すると啓蒙所と呼ばれる部屋になります。かつて、洗礼を受けていないものはこの啓蒙所までしか入ることができなかったそうです。この啓蒙所のイコンは聖人たちが迫害に屈することなくいかにキリスト教を布教したかということが描かれています。ここで迫害者として描かれているのはローマ兵たちで、当時の拷問の様子などが描かれております。
 啓蒙所に続く部屋が聖所と呼ばれ、キリストの一生や聖人たちのイコンが描かれており、ドーム型の天井があります。ドーム型の天井の頂上にはキリストが描かれており、その下には必ずといっていいほど窓があり、その下に4人の福音書記者である聖人マタイ・マルコ・ヨハネ・ルカが描かれております。そして、その奥に至聖所がおかれます。ここに立ち入るには司祭の許可が必要だそうです。

これが礼拝堂への入口です。

ギリシャの方々は老若問わず本当に敬虔な方が多くようです。礼拝堂へ入る際には、十字を切り、入口の両側の壁のイコンに口づけをしてから入場します。ちなみにローマ・カトリックでは十字を切る際、上下左右の順に十字を切るのですが、正教では上下右左の順に十字を切ります。

礼拝堂を外から見ます。

修道院のテラスからの眺めも壮大です。「こわーい」「下が見れない」という声も聞こえてきます。

  

昔は、この修道院に行くのには岩山のふもとからロープなどを使って苦労して登って行ったそうです。荷物の運搬には滑車を利用します。荷物だけかなぁと思っていたら、修道士の姿も!

  

車で、もう一つ修道院を訪れます。アギオス・ステファノス修道院という女子修道院を訪れます。14世紀に2人の修道士が修道院を創建したのが、始まりだそうで女子修道院ということもあり庭の整備も整い、バラも咲いていました。

  

  

野生のシクラメンを発見しました!

青森でシクラメンを育てようとすると冬場大変だと聞いたことがありますが、ギリシャでは野生のシクラメンが群生しています。

岩山の上には合計6つの修道院が現在もあります。

  

中にはたった一人の修道士が修道生活を送っているという修道院もありますが、現在も敬虔な修道士たちが暮らしています。そして、ギリシャ正教の聖地としてギリシャ各地から巡礼の方々が来られます。

次回は、ギリシャを後にし、南イタリアをご紹介しましょう。      
                                                           (あ)


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カリメーラ!
ボンジョルノ!
おはようございます!


ギリシャ語、イタリア語、そして日本語で「おはようございます」を申し上げました。
先日、ギリシャを訪れた時、11月だというのに気温は20度を超えていました。
暖か~い、そして空の色が真っ青ね~など、お客様の声もギリシャの柔らかな日差しに溶けてゆきます。


さて、今日は首都アテネをご紹介しましょう。
アテネの名はギリシャ神話の中に出てくる知恵の女神アテナにちなんでつけられたものです。


ギリシャ北部にあるオリンポスの山(海抜約2900m)はいつも頂上が雲で覆われており、古代ギリシャ人たちはこの雲峰に神々が住んでいたと考えていました。それが、ギリシャ神話です。ギリシャ神話にはたくさんの神様が出てきますが、なかなか俗っぽい神様もいて楽しいです。


最高神であるゼウスは天と雷と正義の神様なのに、浮気っぽい。

その奥様のヘラは結婚、出産、育児の神で、嫉妬深い。

ゼウスは6人兄弟で、兄2人、姉3人の末っ子です。

兄は海と河川、泉、地震の神で短気で怒りっぽいポセイドンと地下と死者の神で冷酷非情かつ厳格公正であるハデス、姉は植物と穀物、豊穣と収穫の女神デメテルと家族と都市の保護者であり穏やかで慈悲深いヘスティア、そして姉であり妻であるヘラ。

ギリシャを訪ねるとたくさんの神殿の遺跡を目にします。その中でも、都市国家防衛の役割を果たし、聖域であるアクロポリスにはパルテノン神殿がそびえています。

アクロポリスとは古代ギリシャの都市国家・ポリスのシンボルとなった小高い丘のことです。

では、聖域への入口である、プロピレアを通りましょう。

ちょっと上を見てください。門の内側が黒く変色していますね。
これは自動車などの排気ガスです。大気汚染の影響がこんなところにも...


パルテンノン神殿はゼウスの娘、アテナに捧げた神殿です。長さ約70m、幅約30mとドーリス様式を用いた素晴らしい神殿で、紀元前432年に建てられました。


ドーリス様式とは、柱身が太く20本の溝があり、遠くからでも真っ直ぐに見えるよう真ん中を膨らませている様式のことです。

  

神殿に続く丘にはオリーブの木々が生い茂っております。
そろそろ収穫の時期を迎えるオリーブがたくさん実っております。

  

展望台にはギリシャの国旗が掲揚されています。

毎朝、国旗掲揚の為の儀式があります。その儀式をする若者たちは、皆、いわゆるギリシャのイケメン揃いで、民族衣装を身に纏っております。

パルテノン神殿の北側にはエレクティオン神殿があります。

ちょっと陰になっているところにはカリアテッドと呼ばれる6人の女神の柱がならんでいるのが確認できますか?
完成は紀元前406年ですから、約2400年前に完成していたことになります。
気が遠くなりそうです。

アクロポリスから見るアテネの町は白くて、この丘をどこからでも見ることができるよう、高い建物がありません。

丘の上から見える建物を紹介しましょう・

亡くなった妻の思い出として大富豪ヘロド・アティクスが161年に建てた音楽堂です。5000人を収容し、古代には音楽の競演や朗読コンクールなどが行われて、現在もクラシックコンサートなどが行われているそうです。ギリシャの人にとって、遺跡は見るためだけのものではなく、生まれた時からそこにある建築物の一つであり、自らのルーツですから、遺跡との付き合い方も違うのかもしれません。

酒と演劇の神様ディオニソス、別名バッカスの劇場も見えております。この劇場はギリシャ最古のものだそうです。約1万7000人を収容できる巨大な劇場でかつては舞台の裏に神殿もありました。

紀元前12世紀から続く聖なる丘、アテネ人の聖域であり、そして戦争時には要塞としての役割も果たしてきた壮大な遺跡群をブーレエの門をくぐり後にします。

次回は地球のヘソ!?をご紹介しましょう。


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